2014年6月


7月1日

実は、今年の2月にK氏のセミナーに行ってきました。

http://amzn.to/1jvBu19


あまり参考にならない内容だったのですが、一つだけ気になることを言われました。

その内容というのが、今年は7月1日までは新しいことをするな。理由は水星の運行の関係だというものです。

http://amzn.to/1lXu5vF


共著で出版した占い師の鑑定だそうです。


しかし具体的に何が起きると言うことには言及はありませんでした。ただガラリと変わるとだけ言われました。

それで、最近、良く目にする情報として米ドルが切り下げられるのではないかという話です。

かつてのニクソンショックのようなことが起きるのではないかということです。



私は為替は素人なので良く分かりませんが米国の財政が危機的な状況なことくらいは理解しています。


チャートなどで、その兆候はありますでしょうか?


一説によると危機的な状況を打開するために日本と中国を戦争させるために米国が安倍氏に圧力をかけているという話も聞きます。

笑わないで頂きたいのですが、

取り急ぎ、相談のみ。

職業

一つの可能性・・・、一つの可能性ですが、

思うに、自分の好きなことを仕事にする、

という概念は、そろそろ終了な気がしています。

今まで私はそうあるべきだと思っていたし、
それが非常に良いこと、最高の人生だと思ってきましたが、

ようするに、仕事にしてもいいんですけど、
お金稼ぎにしてはいけないと、感じています。

まだ、可能性なので、また進化したら、
もっと突き詰めていけると思います。

 
好きなことを、お金稼ぎにしてしまうと、どうなるか?

・野球なら、記録が大事で、遊び感覚でできなくなる
・商売でも、売上が大事で、お客さんが見えなくなる

もちろんこれは、個人で事業をやる場合です。

サラリーマンとか、逆にのびのび仕事ができると思っているのは、
給料が決まっていると、売上を上げることを考えなくてもいいからです。

 
マー君でもそうですが、サッカーワールドカップでもそうなんですが、

もう、楽しくプレイはできないですよね。

勝たないといけない、

ミスはできない、

遊びではできない。

負けたら、使ってもらえなくなる、

どうしても勝たないといけない。

などなど、ですね。

ヒットする商品を作らないといけなくなると、
アーティストでもそうですが、どうしても
自分が作りたいものを作れなくなる。

 

となると、やっぱり、お金を稼ぐのは、お金を稼ぎやすい職種をして、
フリーエージェントをして、ビジネスはビジネスとして、

そして、テニスなら、テニスは遊びで、やるのも、
一つの可能性として感じています。

もしも私がテニスを仕事にするなら、それもできるでしょう。

でもそれは、例えばコーチ業だったり、
動画撮ったりとか、あくまでテニスに携わる、仕事であって、

本来のテニスの楽しさを味わえるものではなくなる。

「仕事」

要素が入った瞬間に、全てが変わるんです。

お金を稼がないといけない、お客さんを満足させなければならない

と思った瞬間に、テニス自体を存分に楽しむことが、濁るわけですね。

濁るわけです。

純粋にプレイできなくなるわけです。

 
私も、本来であれば、自分の理念とか思想を、
思う存分、160キロくらいの球を投げたいんですが、

どうしても、これだと分かりにくいかなとか、
いろいろなことを考えて、投げざるを得ないわけです。

よっしーとか、そういう人には会うたびに
165キロくらいの球を投げつけているのですが
(もちろん彼が全て理解できるわけではない)

私の本来のパフォーマンスが最大限に発揮されるには、
何の制約もなしに、無限に喋り続ける、だけなんですね。

ただ、時間効率とか、いろいろな制約を食らうので、
全国を回ることができないし、
パフォーマンスが下がる。

だいぶ、自分の能力が最大限に発揮できて、
伝わるようには頑張っているのですが、
やっぱり制約を感じます。

フェイスブックの投稿に関しては、ほぼほぼ、
制約なしで球を投げれていますが・・・。

 
ようするに、お金を稼ぐのは稼ぐ、集中して、
ビジネスとして、何か頑張って、

自分のしたいこと、創造性あふれることとか、
漫画読むでも、友達と遊ぶでも、

そこにはビジネス関係を介在させないことです。

私は、ビジネス、関係での、友人を作りません。

お金が絡むと人間関係がどうたら、とか
聞いたことがあると思いますが、そんな感じです。

 
一つの可能性ですよ、一つの。

だからこそ、やりがいのない仕事やってる~というのは
もちろんまずいんですけども、

例えば、ちょっと我慢して月収100万円くらい稼げるなら、
嫌な仕事でも頑張って楽しみを見出しながら頑張って、

そして、他の時間を自分のやりたいことにつかう、

この生き方も、一つの例として、考えてほしいということです。

そのほうが、

好きなことをして月収30万!

よりも、人生の充実度は高まると、今可能性の一つとしてとらえています。

ようするに、お金稼ぎも中途半端、好きなことやるのも中途半端になるわけです。

プロのスポーツ選手になれば、全ての時間を、そのスポーツに捧げないといけなくなります。

それは、昔純粋にプレイしていた楽しみは味わえなくなる、ということです。

勝手も負けても良い、ではなくなる。

サッカー、負けた瞬間にバッシングされる。

笑顔はないですね、彼らに。

そういう視点からも、例えば、輸入ビジネス、アフィリエイトとかで、1日2~3時間仕事を頑張って、月収100万稼いで、

あとは、自分のしたいことをする、

そういう生き方のほうが、いいのかなという可能性を感じているということです。

何度も言いますが、可能性です。

「好きなことを仕事にしたい!」

という思考に縛られているのであれば、
それは真実ではない可能性があるということです。

よく言われている幻想です。

仕事=お金を稼ぐために、お客さんに最大の提供をすること
遊び=自由に遊ぶこと

なのかもしれません。

仕事は仕事の楽しみを見つける。

遊びは何をしても自由。

うん。

一つの可能性の提示です。

となってくると、お金を稼ぐことに全力を注げることになりますが

でもそれだけで一日が終わるとかは結構きつくて、

バランスということにもなってくるのですが。

やっぱり優先順位としては、経済的な成功、が第一に来るんだろうなという、考えです。

好きなことをしたい、とか言わずに、作業でもなんでも、本気で頑張る。

フリーエージェントな仕事を頑張るわけですね。

お金が稼げる、フリーエージェントな仕事を。

必ずしも、楽しい仕事を選ぶ、必要はないのかもしれないという、可能性の提示でした。

ありがとうございました。

ヒロト氏のFBより転載

 

自由

ユダヤの自由は"金"でのみ証明出来る。


損切り

http://bunpitsugeki.jp/
上記より転載
人生を守る「損切り」の断行

 藤原宏美, 関水徹平(著)『独身・無職者のリアル』(扶桑社新書) の中に悲惨な事例が記載されていた。

 「公務員試験に6年連続で落ち続けて、ショックで4年間、引きこもりになってしまった」という男性だ。これで大学卒業後の10年が、「職歴なし」になってしまったというわけだ。

 この男性は、怠けていていたわけではない。毎日4~8時間、公務員試験対策の勉強をしていたそうだ。しかし、6年連続で不採用。

 改めて僕が言う必要もないが、職業生活を歩む上で、20代から30代にかけての時期は、最も重要な時期だ。実務能力も、この時期の過ごし方で決まると言って良い。

 今更言っても遅いが、その時期を「公務員対策の勉強と引きこもり」で空費するのは、キャリアの上では、致命的と言ってもいいほどだ。

 気の毒ではあるが、これは本人の判断ミスも大きいだろう。

 この公務員試験に執着して、人生を棒に振った若者は、おそらく「これまでに費やした時間と労力が無駄になる」が故に、途中から、引くに引けなくなったのだと思う。

 気持ちはわかるが、数年を無駄にすることを惜しんだために、より大きな人生の損失を招くことになった。

 最悪でも、「2年連続不採用」または「3年連続不採用」の時点で、公務員試験対策に費やした時間と労力は、「損切り」をして、他に働ける場所で働くべきだったと僕は思う。

 「損切り」とは、投資用語で、誤ったポジションを取ってしまった時、損失額をそれ以上拡大させないために、投げ売りして、損失金額を確定させることだ。

 既に注ぎ込んだ時間や労力、金銭は「サンクコスト」と呼ばれる。サンクコストは、もう戻らない。

 良い意思決定をするためには、「サンクコストを考えない」のが大原則だ。数年間の労力を無駄にしたくないばかりに、今後の人生を棒に振るのは、本末転倒としか言いようがない。

JPOPの歌詞を書くなら、「夢を諦めないで」だが、現実問題として、物事にはタイムリミットがある。

 「努力すれば、手が届く」のか、「努力しても、手が届かない」のか。競争率の高い職業を目指す若者にとって、最も重要なことは、この見極めだと思う。自惚れすぎてはいけないが、卑屈になってもいけない。ハッキリ言って、この見極めは非常に難しい。

 見極めは難しいが、叶う見込みのない目標に固執すると、人生全体を棒に振るリスクが高まる。「努力しても、手が届かない」と気付いたら、速やかに「損切り」し、その道から撤退することが重要だ。

 これは職業選択の文脈だけでなく、恋愛でも同じことが言える。

 誤った判断をしたなら、そのために注ぎ込んだ時間や労力は、潔く諦めるべきだ。

 もちろん、判断を間違わないことが理想的だが、人間なので、それは難しい。大切なのは、誤った判断をしたとしても、人生を棒に振る前に、「損切り」を断行することなのだ。

公務員試験に6年連続で落ち続けた男性は、身をもって、そのことを教えてくれた。

家康

http://www.snsi.jp/tops/kouhou
上記より転載
副島隆彦です。今日は、2014年6月10日です。 以下に載せるのは、私たちの会員で、名古屋市に在住する松永知彦氏の 長文の論文です。

私はこの松永論文を、なんと、5年前(2009年)に受け取っていました。が、そのままほったらかしにしました。それは、私の物書き生活が忙しくて、とてもこのような長文の論文を、しっかり読んで、私の赤ペンを入れてあげて、それから、この今日のぼやき に載せるだけの 手間を懸けられなかったからです。

私は、松永くんにお詫(わ)びも兼ねて、先週、5月18日に、名古屋でお会いして、お話して。一緒に食事をしました。松永くんは、40代のまじめな会社員です。

彼が、自分の人生時間の合間を縫って、こうして、「徳川家康(とくがわいえやす)とは何者か?」の大きな課題に挑んで、調査をして、そして、以下の優れた歴史論文を書いてくれました。 5年間もほったらかしにして、申し訳ない。これで、なんとか、大きな真実が、また陽(ひ)の目を見ます。

この「徳川家康とは何者か。本当は、真実は、どのような出自(しゅつじ)か」という問題は、私、副島隆彦もずっと、10年来調べていることです。  私が、去年出しました、日本の歴史についての研究本の『闇に葬られた歴史』(PHP研究所 刊 )の第二章で、全く、松永くんと々課題を追究しています。私が、6年前に、この今日のぼやき に載せました 家康研究に 触発されて、松永君が、以下の渾身の、執念の調査論文を書いてくれました。

それに、私が、ようやく、今日の朝からずっと時間を懸けて、いままで10時間ぐらい時間を懸けて、私の注釈や注意書きを、各所に入れながら完成しました。  

私、副島隆彦も、まだまだ歴史研究をやります。 信長、秀吉、家康の 日本人にとっては、三題噺(さんだいばなし。三人の話)のような 戦国時代の 日本国の政治の闘いの本を、書きます。

私は、先週、4日間かけて、一冊の本を読みました。ものすごく勉強になりました。これで、日本の戦国時代ものの、歴史研究も、歴史小説が描き出す真実も、相当に進歩し、これまでの多くのウソの歴史書(ねつ造してきた古文書の数々。およびそれに加担してきた 歴史学者たちの学問犯罪と責任)の悪が、満天下に、暴かれるでしょう。

その本とは、『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎=あけちけんざぶろう= 著 文芸社文庫、2013年刊、720円) です。 この本は、すごい。 私は、この本からものすごく重要な多くの真実を学びました。

それらの成果は、どんどん、ここの会員ページに載せてゆきます。 次回の ケンカ道場でも取り上げます。

それでは、松永知彦くんの 優れた歴史調査論文を お読み下さい。

 (よしなお君へ。 以下の松永論文の 各所に、適宜、松永くんが現地で撮ってきた、お寺のお墓の写真とかを、5枚ぐらい貼って下さい。私が、どのへんに何を貼るかを指図します。 )

副島隆彦拝

(以下が、論文です)


  平成21年(9月9日

  松永知彦 筆

                                
  『史疑(しぎ) 徳川家康事績』から、松平(まつだいら)初代親氏(ちかうじ)公
   七代清康(きよやす)公 ・ 徳川家康公について


  はじめに 『史疑 徳川家康事績』のあらすじ 

 明治三十五年(1902年)に出版された『史疑(しぎ) 徳川家康事績(じせき)』村岡素一郎(むらおかもといちろう)著 (民友社) は大胆且つ大変魅力的な本です。

 史実として固定されている三河(みかわ。 現在の愛知県東部、岡崎市・豊田市・安城市あたり)の 豪族松平家の九代目とされる、征夷大将軍徳川家康の出生に一石を投じた「問題作」です。なにしろ、通史でいうところの 徳川家康は 松平元康 (改名するまえの名・まつだいらもとやす) とはまったくの別人であり、しかも卑賤の出身であるというのですから、物議を醸(かも)さないはずはありません。
 
 私は、この『学問道場』の今日のぼやき 「721番」(2006年1月9日) で、副島先生の『史疑(しぎ)』の紹介文を読むまで、その存在を知りませんでした。 徳川家康についても、一般に言われている、三河松平家の出身、幼名竹千代(たけちよ)、今川家の人質、岡崎城城主、関ヶ原の合戦、征夷大将軍、程度の知識しか持っておりませんでした。それだけに、その内容には大変に驚かされると同時に『史疑』の世界に魅了されました。
 
 『史疑』で展開される、家康すり代わり説の内容については、私の拙い説明よりも、礫川全次(こいしかわぜんじ)氏の著作の『史疑 幻の家康論』(批評社) の110ページに歴史家、桑田忠親(くわたただちか)氏が書いた要約文が引用掲載されています。最後の礫川氏のコメントまで含めて、その本から重引用させて頂きます。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

 村岡素(もと)一郎の所説に従うと、まず、幼児から今川の人質となって駿府(すんぷ)にあって辛酸をなめたという松平竹千代という少年は、正史の上では、徳川家康の少年時代とされているが、実際は、そうではなくて、三河の豪族松平元康(もとやす)の嫡男竹千代、つまり、正史でいう後の岡崎三郎のことだ、というのである。

 つぎに、弱冠十九歳で今川義元(いまがわよしもと)の先鋒を承って、桶狭間の戦いに出陣し、尾張の大高城(おおたかじょう)に兵糧を入れたは、正史の上では、三河の豪族松平元康とされるが、真実は、この元康を暗殺して(引用者注※)、これに代わって岡崎城主となったのは、願人坊主(がんじんぼうず)あがりの 世良田二郎三郎元信(せらた・じろうざぶろう・もとのぶ) である。

 この元信が、織田信長と清洲同盟を結び、徳川家康となって、後に天下の覇権を掌握する、というのである。そうして、この世良田元信の前身が、願人坊主(がんじんぼうず)であったことについては、次のように説明している。

 駿府(すんぷ。今の静岡市 ) の宮の前(みやのまえ)に住んでいた善七(ぜんしち)という者の娘のお万(おまん)というのが、売りとばされて、七右衛門(しちえもん)というささら者の妻となった。 その間に生まれたのが、お大(だい)であった。このお大が宮の前に住んでいた頃、たまたま下野国(しもつけのくに) から流れてきた祈祷僧の江田松本坊(えだまつもとぼう)と密通して、男子を産んだ。これを国松といった。この子が世良田元信である。

 因みに、ささら者とは、平素は町に出て、ささら や、燈心、付木などを売り歩くが、正月になると、鳥追い唄 などをうたい、門づけして歩くので、非人あつかいされていた。そうした人々の集団をいうのである。

 このささら者の国松という子供は、生母のお大(だい)が再婚したあと、祖母のお万が源応尼(げんおうに)と称して尼となっていたのに養育されたが、やがて、近くの円光院という浄土宗の寺院に預けられ、名を浄慶(じょうけい)と改める。

 円光院の住職智短上人(ちたんしょうにん) は、浄慶に読み書きを教えた。が、浄慶は、九歳のとき、他の寺内で小鳥を捕まえたことがわかり、破門された。そこで浄慶は祖母源応尼のもとにも帰りにくくなり、駿府城下をうろつきまわっていた。そのとき、又右衛門とうい悪者が、浄慶をかどわかし、銭五百貫文( ママ ) で売りとばした。これが、『駿府記』(ママ) に出てくる大御所徳川家康の述懐である。

 ところで、浄慶を買い取った者は、駿府の中の府中(ふちゅう)八幡小路(はちまんこうじ)の願人坊主・酒井常光坊(さかいじょうこうぼう)であった。願人坊主というのは、寒中素っ裸になって町をまわり歩き、家ごとに、その頭から冷水をかけてもらい、修行するならいであった。浄慶も、酒井常光坊について行(ぎょう)を積み、やがて一人前の願人坊主となり、加持祈祷(かじきとう)を施し、守札(しゅれい)や秘符(ひふ)を売って歩いていたらしい。浄慶は、常光坊のお供をして、九歳から十九歳まで十年余、諸方の山野を跋渉(ばっしょう)し、各地の地理・人情・風俗を偵察した。

三河国の豪族松平の宗家である岡崎城主・松平元康 と 駿府の今川家との関係を洞察し、永禄(えいろく)三年(一五六○) の 四月、十九歳のとき、同志を呼び集め、駿府の今川館に人質になっていた元康の幼児 竹千代 (後の岡崎三郎信康=のぶやす=)を奪い取り、遠江(とおとうみ)に遁走した。

 その五月、今川義元が尾張の桶狭間の戦いで織田信長に討たれた。浄慶は、浜松城(その頃は、引馬城=ひきうまじょう=と言った)の 井伊直教(いいなおたか)を攻めて城を取った。そして、竹千代を尾張の熱田(あつた)に護送し、織田家の人質とした。(副島隆彦注記。このあたりは、記述がおかしい。) 

 信長は、(副島隆彦注記。今川方の忠臣であった)岡崎の松平元康にたいして、「今川を叛いて織田と和睦せよ」と申し送った。しかし、元康は、これを拒絶して、織田がたの属城を攻め続けた。そのころ、願人坊主の浄慶は、還俗して、世良田二郎三郎と名のっていた。世良田と称したのは、かれを捨てて駿府を去った父が、上野国(こうずけのくに)の新田(にった)氏の後裔だ、と聞いていたからである。父の姓 江田(えだ)を取らずに、同じ新田の支族である世良田を称したのであった。

 世良田元信は、岡崎城主の松平元康に協力し、各所で織田勢と戦った。(副島隆彦注記。この辺りの記述はあいまいだ。論旨不明 ) 岡崎城主・松平元康(もとやす)は、家臣の阿部弥七郎(あべやしちろう)に刺し殺された。・・・・世良田元信は、三河に入り、ひそかに元康の遺骸を荼毘に付し、さらに敵がたをあざむく必要から、自分が、松平元康その人になりすました、というのである。

 だから、この願人坊主あがりの世良田元信が、自分の策略で殺された国岡崎城主・松平元康に成り代わり、自分が駿府で盗み出し、岡崎に連れてきた、元康の長男竹千代が、後の岡崎三郎信康(のぶやす)である。(副島隆彦注記。信康は、21歳のとき、元康=改名して家康に、殺された。)
 
(以下は、副島隆彦が、簡潔に、正しく書き変えます。)世良田元信は、松平元康にすり替わったので、元康の正妻の築山殿(つきやまどの)と極力離れて暮らした。すり替わったこことを見破られないようにである。築山殿は、亡き夫松平元康暗殺の秘密の鍵を握っている女性だった。かの女は、甲斐の武田氏と連絡を取って、武田の助力を得て、松平元康から徳川家康と名を改めた人物の真実を知っていたので、わが子信康と共に、甲斐に逃げようと考えた。この動きを知った家康が、織田信長の命令で、築山殿と岡崎三郎を暗殺した。

(副島隆彦注記。ここまで、副島が、以下の「戦国史疑」という本の、いい加減な部分を、すべて、訂正しました。)

《 『戦国史疑』二二六~二二八ページ、一九七六、新人物往来社 》

 桑田氏は、村岡説を否定する立場に立っている人だが、上の要約は非常によくまとまっている。 ( ただ文中「五百貫文」、『駿府記』(すんぷき)とあるのはそれぞれ「五貫文」『駿府政事録』(すんぷせいじろく)とすべきである)。

<引用終了>

 ( 注※この場合「この元康が暗殺され」のほうが、表現としては妥当だと思う。 村岡素(もと)一郎は、世良田 元信が元康を暗殺したとははっきりとは書いていない。)

 松永です。礫川(こいしかわ)氏が言う「五百貫文」と「五貫文」、『駿府記』と『駿府政事録(すんぷせいじろく)』の違いについては、『史疑』を語るうえで、重要な問題です。この部分が解明されれば、それだけで家康研究が大きく前進します。この問題については、のちほど、礫川氏の論考を参考にさせて頂きながら取り上げます。


●【徳川家始祖 時宗(じしゅう)の僧「親氏(ちかうじ)」(徳阿弥=とくあみ)について】

一、「親氏」は 松平郷へ入郷したのか

 松永知彦です。  通史では、新田源氏の末裔であり、零落(れいらく)して時宗(じしゅう)の僧になった親氏が、松平郷(まつだいらごう。 現在の愛知県豊田市松平町) にまで、上州から流れ着いて来て、土地の豪族、松平太郎左衛門(まつだいらたろうざえもん)の次女である「水女」(すいじょ)の婿(むこ)となり「初代 松平太郎左衛門 親氏」(まつだいらたろうざえもん・ちかうじ)を名乗ったのが松平家のはじまりで、徳川家康(松平元康)はその九代目、とされる。しかし、この「時宗の僧」がどういう者なのか、これまでわかりませんでした。

 私が、図書館や、古書店で調べてみても、「一遍智真(いっぺん・ちしん)という人物が開祖である」とか「踊りながら念仏をとなえ諸国を遊行した僧たち」程度のことぐらいしかわからず、どうにも気持ちの落ち着かなかった。

 しかし副島隆彦先生 の 『歴史の学ぶ知恵 真実を見通す力』(PHP研究所) にその回答があった。そこに、「 「時宗の僧」とは「戦陣僧」であった」 とありました。この事実は本当に私にとって驚きでした。 討ち取られた武将の首を洗うために、戦場(いくさば)にまで、ついて行ったであろう比丘尼(びくに)たちを含めて、なんとなくその当時の様子までもが頭に浮かんできそうなぐらい、深く納得することができました。

 おそらく、一遍(いっぺん)上人の後について、いろいろな人々、中には乞食や賤民らもそれにつらなり、かなりの大勢での遊行(ゆぎょう)であったのでしょう。「武士が能(のう)を好んだ」ということからしても、三河地方にも古くから伝わる踊り芸人たちの集団である「万歳」(ばんざい)がある。そして、 それが、観阿弥(かんあみ)や世阿弥(ぜあみ)たち芸能人につながっていったのだろう。

 日本史学界では、「 徳川家康の 新田源氏末裔説 」は、現在では否定されている。現在知られている徳川家の系図は、征夷大将軍になるにあたって源氏姓が必要であったので、新田源氏の末裔である親氏(ちかうじ)を祖先とする系図を作成した経歴詐称、とする。しかし、親氏の松平郷への入郷そのものに関しては今も賛否両論のようだ。

 現在の豊田市松平町で、「松平親氏公 顕彰会(けんしょうかい)」という会が組織されており、資料集が数冊を発行されている。平成五年((1993年)に、『松平親氏(ちかうじ)公六百年祭』を催している。毎年『松平東照宮(まつだいらとうしょうぐう)春まつり』という町をあげてのお祭りも開催している。

 ところが、私が調べたところ、その一方で、『新編 岡崎市史 中世』 には、「松平氏は加茂郡松平郷(かもぐん・まつだいらごう)の有力地主であり、入り婿になったのは、名もない遍歴者であった」と書いてある。 今現在、書店で手にいれることのできる家康関係の歴史本には、親氏の松平郷入りを認めているものの、新田源氏末裔説には否定的という立場をとっているものがほとんどだ。

 私は、自分のこのあたりの見解をはっきりさせておきたいと思った。そこで、豊田市松平町の松平資料館へ行った。そして、そこで手に入れた『松平家 由緒書(ゆいしょがき)』という古文書を読んだ。 それを根拠として、親氏と泰親( やすちか・松平家二代目 )は、三河(みかわ)松平郷へは来ていない、という村岡素一郎の主張が正しいことを確認した。

 この『松平家由緒書』は、豊田市松平町赤原の神谷康重氏(平成四年十二月没)が所蔵していたものだ。 『明治十四年松平村誌』の附載(ふさい)としてあったものを、昭和四十六年(1971年)の「松平町史編纂」の資料募集の際に、あらためて作られたものだ。『三河物語』や『松平記』、『徳川実紀(じっき)』などの徳川家の検閲が入った江戸幕府編纂の史料とは違う。個人宅にひっそりと所蔵されていたものだ。ちなみに所有者の神谷氏は、松平太郎左衛門家の家老の家柄の子孫だそうだ。

 (副島隆彦注記。私は、この本物の古くからの松平氏である、太郎左衛門の家を、現地で確認してきた。 2014年6月3日。近くに、大給(おぎゅう)松平氏の 城跡があった。松平郷の中の一番、山奥である。)

 『松平由緒書』には、筆者も、書かれた年月も記されていない。だが、松平郷の屋敷や建物、及び居住者に関する口伝が詳細に記述されている。そして、末氏(まつうじ)の尉(じょう)、太郎左衛門尉(たろうざえもんのじょう)、右衛門尉(うえもんのじょう)、等「尉」(じょう)のつく中世風の人名が多いこと、そして文体や書体が近世初期のものと思われることなどにより、近世の初期には成立していたものであるとされている。

 また、六代信忠(のぶただ)の隠居に至る経緯などが詳細に書かれてあることから、松平家・徳川家の真実の研究資料としての価値が認められている。

 そして、なによりも、「徳翁斉(とくおうさい)」( 徳阿弥とは書いていない) が松平郷へ入郷した時の状況や太郎左衛門信重(たろうざえもん・のぶしげ)との問答の様子が、『三河物語』と比較すると、より詳細であるということが、この古文書の価値を高めている。そして私、松永が注目するのは、この『松平由緒書』には「親氏(ちかうじ)」や「徳阿弥(とくあみ)」などという名前は、ただの一度も出てこない。

 太郎左衛門信重との問答でも、自らを「(時宗の)僧」などとは言っていない。ただ「我等と申(す)ハ東西をきらわすして牢流ノ者に候(そうら)へハ(ば)御はつかしく存(あり)候(そろ)と御返到(おへんとう)被成(なされ)候(そろ)」とある。「我らは、東西(南北)を旅する者です。恥ずかしい下層の者です」と言っている。

(この問答は、現在書店で売られている、『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】(学習研究社)』にも紹介されている。)

 徳翁斉(とくおうさい)は、「時宗の僧」であっただろうが、その確たる存在の証拠はない。ただの乞食(かっしき)だったのかもしれない。入り婿してからの名前も「松平太郎左衛門尉信武」(まつだいら・たろうざえもん・のぶたけ) でありここでも、通史でいう「松平太郎左衛門親氏」(まつだいら・たろうざえもん・ちかうじ)ではない。

 そして身内についても、八幡寺 ( 碧海郡 知立町 へきかいぐん ちりゅうちょう にある ) に「祐金斉(ゆうきんさい)」という弟が居候しているので、こちらに呼んでもよいかとたずねている。「泰親(やすちか)」でも「祐阿弥(ゆうあみ)」でもなく「祐金斉(ゆうきんさい)」である。 松平家に入ってからは、「祐金斉亀明(ゆうきんさい・かめあき)」と名乗っている。

 『松平由緒書』に同載されている訳文、解説文は、「徳翁(親氏)」、「祐金斉(泰親)」というように読者にわかりやすく記載されている。だが、素直に読むかぎり、徳翁斉と親氏、祐金斉と泰親は別人である。

 親氏、泰親と彼らの父である有親(ありちか)の3人は、おそらくは、新田源氏系の「時宗の僧」であっただろう。文学博士、中村孝也(たなかかたや)氏の大著『家康傳(いえやすでん)』(〇〇年刊、〇〇出版)から引用する。

<引用開始>

( ※ かっこ内のふりがな は 引用者)

  所伝(しょでん)によれば親氏(ちかうじ)は、足利政権の圧迫を逃れて、父 有親(ありちか)と共に時宗の僧となり、有親は長阿弥(ちょうあみ)といい、親氏は徳阿弥(とくあみ)といい、諸国を流浪した というのである。整理された系譜によれば、新田義重(にったよししげ)の末子 義季(よしすえ) は、上野国(こうづけのくに)新田郡(にったごう)世良田庄(せらたのしょう)徳川郷(とくがわごう)に住んで、徳川氏( 得川氏 とくがわし ) を称し、それより頼氏(よりうじ)・教氏(たかうじ)・家時(いえとき)・満義(よしみつ)・政義(まさよし)・親季(ちかとき?ちかすえ?) を経て 有親 に至ったという。

  後亀山(ごかめやま)天皇の 元中二年(一三八五年、北朝至徳二年 ) の秋、新田氏の一門が、信濃浪合(なみあい)において、南朝の某宮に殉じて戦死した所伝の中に、世良田大炊助政義 (せらたおおいのすけ・まさよし)、世良田右京亮有親(せらたうきょうのすけありちか) の名が見えている ( 鎌倉大草紙・藤沢山縁起・信濃宮伝・浪合記(なみあいき))

<引用終了>

 松永知彦です。 世良田有親(ありちか)の子が親氏(ちかうじ)と泰親(やすちか)であるということには概ね異論はないようだ。そこで、以後、彼らを世良田(徳阿弥)親氏(せらたとくあみ・ちかうじ)、世良田(祐阿弥)泰親(せらたゆうあみ・やすちか) と呼んでさしつかえないと思う。だが、この二人は、三河松平家とは一切関係ない。


二、南條範夫(なんじょうのりお)氏の見解

 さて、一方、愛知県三河地方の徳川郷(とくがわごう) に残る 「松平親氏公 顕彰会」が発行する『松平氏とその史跡』、『松平太郎左衛門家 (第十六代) 信言(のぶこと) の年代覚書』を読んでみると、八代目の広忠 (ひろただ。 この人が、松平元康=家康 の父親とされる) からさかのぼって三代前の信光(のぶみつ。親氏からは6代目? ) までは、史料も豊富で合戦や築城などの活動内容も具体的だ。

 だが、その前代の泰親(やすちか)そして 初代の親氏となると、突然史料の質、量とも減って、内容も曖昧になる。ところが、その前代の、松平 を名乗る前の太郎左衛門信重(たろうざえもん・のぶしげ。徳翁斉が入り婿した水女の父 ) の段になると、再び具体的になってくる。

 『史疑』を元にして書かれた『三百年のベール』(批評社)という非常にすばらしい小説がる。この本の著者は、小説家の南條範夫(なんじょうのりお)氏である。南條範夫は、「有親、親氏、泰親の歿年(ぼつねん)に諸説あり、親氏はその存在すら疑わしい」と言っている。『三百年のベール』から引用する。

<引用開始>

( ※かっこ内のふりがなは引用者)

 有親(ありちか)なる男は、いつどこで死んだか分からない。『上野人物志』では嘉吉元年京都に於いて歿す、としているし、野史に引用されているところでは、京徳元年 三河大浜 称名寺 (みかわ・おおはま・しょうみょうじ) に於いて歿したと言う。

 これは老父の方だから不問に附するとしても、肝心の親氏(ちかうじ)にいたっては、更に謎に包まれていて、その歿年は、康安元年(皇紀二○二一年)から、応仁元年(同二一二七年)まで七説にも別れている。最も古いものと最も新しいものとでは百六年の差があるのだ。

 一体こんな人間の存在が信じられるものだろうか。序に親氏の弟と言われる泰親と言う男も、その歿年は、永和二年から文明四年に至る各説があり、その差は九十六年もあるのだ。

<引用終了>

 松永知彦です。南條氏は、村岡説に沿う形で、「親氏は存在したものの松平郷へは来ていない」と結論づけています。そして、この小説の主人公に「親氏の歿年をいっそ、のことあと百年後にもってきたらどうだろう」 と語らせて、親氏を家康の遠い祖先ではなく、実の父ではないか、との推理をさせている。これは、村岡素一郎著『史疑』にはない説であり、南條氏自身の推察だろうが、案外そうかもしれないと私も思う。

 村岡氏は、家康の実父として、「下野国(しもつけのくに。今の栃木県)から流れてきた祈祷僧の江田松本坊(えだまとつもとぼう)」をあげているが、その根拠を示していない。

三、村岡素(もと)一郎氏の見解

 村岡氏は、府中(東京都府中市)の 称名寺 で、江戸時代の後期に、親氏の墓が発見されたことを根拠に、親氏は三河大浜 (愛知県 碧南市 へきなんし) の称名寺には来ていない、としている。『史疑 徳川家康事績 現代語訳版』礫川全次著(批評社)から引用する。

<引用開始>

今を去る百年前、享和二年壬戌 (一八○二年) 二月、武州多摩郡府中の時宗称名寺の竹林の中から、世良田徳阿弥親氏の墓碑が発掘された。このことは、既に世間に周知のことである。

 さて、その碑銘には、「世良田徳阿弥親氏、応永十四年(一四○七)四月廿日」と刻まれてあった。史伝に明記するところでは、有親、親氏の父子は相たずさえて諸国を巡歴し、のち参河(みかわ)にはいって酒井氏の養子となり、さらに松平氏の養子になったという。

ところが徳阿弥親氏が武州多摩郡府中(ふちゅう)に歿したことは、この墓の存在によっても明々白々で、争うべからざる事実である。したがって、父子が二人で参河に入国したというのは、極めて疑わしいことになる。

<引用終了>

  松永知彦です。大浜(愛知県の三河湾に面している町。吉良(きら)町の西)の称名寺では、現在でも家康ゆかりの地として、親氏をはじめ、有親、親季、松平六代信忠(のぶただ)を祀(まつ)っている。松平信忠以外の三人の墓碑には、すべて「世良田」が彫り込まれている(ただし現在あるこれらの墓碑は近年新しくされた物だ)。

 一方、東京の府中の称名寺は、現在では、掘り出された親氏の墓碑は公開しておらず、日本史学界では、後世に造られた偽墳であるとして決着しているようだ。その根拠は、墓碑に刻まれている年号が「応永一四年」となっているが、中世ではこのような書き方はしないから、ということと、十八、九世紀当時、それこそ家柄の経歴詐称で多くの偽墳が造られた、その時の状況とよく似ている。この2点を挙げている。

 だが、ほんとうにそれだけの理由で偽墳と片付けてしまってよいものか。真実は、この府中の称名寺のほうが、本物の本当の親氏(ちかうじ)の墓であり、墓碑は後年、災害かなにかで破損したために改葬されたのだ。なによりも、地中に埋められていた(人目に付かないように隠されていた?)という事実がこの墓が本物であることの証(あかし)であると私は思う。

 おそらく寺社記は徳川幕府の検閲に遭って残っていない。せめて徹底的な発掘調査をすべきであると思う。


●【松平七代清康 (きよやす) 公について】

一、「森山くずれ」について

 森山くずれ とは、家康の祖父とされる 清康(きよやす)が、天文(てんぶん) 四年(1535年) 十二月に、尾張(おわり)に攻め入って、尾州森山(びしゅうもりやま 。 現在の愛知県名古屋市 守山区 )に陣を構えた、この時、家臣のあいだで裏切りの噂があった老臣阿部大蔵(あべのたいぞう)の息子、弥七郎(やしちろう)によって刺し殺されたという事件だ。村岡氏は、この 森山くずれ は、松平元康=家康の 祖父の清康(きよやす)の時代の事件ではなくて、そこで刺し殺されたのは、元康その人である。

 (副島隆彦注記。私の調べでは、それは、1561年12月4日。それは、織田信長が今川義元を急襲して討った桶狭間山(おけはざまやま)の戦いのあった1560年5月20日から、一年半後である)

 この森山崩(くず)れ で、世良田二郎三郎元信が、死んだ松平元康に入れ替わり、なりすました、と村岡素一郎は、主張している。そして、事件そのものを清康の時代に仮託してしまったのだと断定している。『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

 元康(もとやす)は、この (世良田元信からの) すすめに従い、永禄四年(一五六一) 十二月四日、(副島隆彦注記。ここでの、松永知彦氏、および礫川氏の現代語訳の記述は、私、副島隆彦には不確かである。私の調査では、この12月4日が、事件のあった日である。あとで確認する)、兵一万人を率いて、尾州へむけて出陣した。ここへ美濃衆も参上した。

 織田信長を清洲より誘い出して一戦と謀をめぐらし、村々や諸所に対する放火も行われた。この役に従軍したのは、安部大蔵定吉(あべのたいぞう・さだきち)、酒井左衛門忠次(さかいさえもん・ただつぐ)、大久保平右衛門忠員(おおくぼへええもん・ただかず)、その子七郎右衛門忠世(しちえもん・ただよ)、同治右衛門忠佐(はるえもん・ただすけ)などである。

 これらの諸子が家康公の創業に力をつくした功臣で、ともにつぶさに辛酸をなめ、難苦を味わったことは、前々に述べた〔第六章〕とおりである。 (引用者注※)

 ところが、雑書には、この時この森山で起きた「森山崩れ」を天文年間〔天文四年=一五三五〕における清康の事績としている。思うに、この事件の顛末が不祥にわたるがために、隔てた時代のことに転嫁したのであろう。
(中略)

 按(あん)ずるに、岡崎の伝では、「 清康(きよやす)公は、上野(副島隆彦注記。三河の中のどのあたりに上野があるのか、分からない )の広久手(ひろくて)合戦のとき戦死され、之(これ)に依り、西三河の御一門をはじめ、御譜代衆も、面々心々(めんめんこころこころ)になりぬ」 と言われている。広久手は山の名で、上野の土地であるという。

 一説には、清康公は、安祥(あんじょう) において戦死をとげられたという。安祥は、一名森山というそうである。

<引用終了>

( 注※『 三河後風土記(みかわごふどき)』によると、上記の家臣たちは、元康=家康の祖父の 清康 に従軍したことになっている。 それが本当なら、彼らはその後、約30年間、ほとんど歳をとらなかったことになる。 )

 松永知彦です。上記の中で、村岡氏が引用している「岡崎の伝」というのが、今のところ確認できない。 南條範夫氏は、「岡崎古記」と表現している。が、それも確認できていない。 私は、愛知県立図書館や、岡崎市立図書館へ行って、閉架書庫 等をあたってみた。しかし、一般への閲覧ができないのか、すでに消失してしまっているのか、色々と検索しても出て来なかった。閲覧できるものの一番古いところで、大正十五年(1926年)の『岡崎市史』だったが、それには、森山くずれは当然のことながら、清康の身に起こった尾張の事件として記載されている。

 また、私が「親氏公、三河入りの事実なし」の根拠にあげた、『松平由緒書(まつだいらゆいしょがき)』にも、「御子に 次郎三郎清康 尾州森山ノ御陣にて 御討死(おんうちじに) 但(ただし)阿部ノ大蔵 むほん仕(つかまつ)り候也(そろなり)」と記載されている。 

 もっとも『松平由緒書』は、全体でも 徳翁斉(とくおうさい)の松平郷への入郷前から大坂夏の陣(1615年)までの記載である。詳細に書き記された徳翁斉の入婿後からあとは、簡潔な箇条書き程度の記載が続くのみだ。もともとあった「先祖の事を記した巻物」に、当時、この記録の持ち主であった松平家の家老職の神谷氏の祖先のだれかが、なにかを参照して書き加えていった、と考えられる。

 この「森山くずれ」で、実際に事件があった場所は、森山の地のいったいどこだったのか。『史疑』では、現在の愛知県守山区内にある「小幡(おばた)が原」である、としている。
『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

 森山とは、尾張東春日井郡(ひがしかすがいぐん)の守山(もりやま)のことである。そして松平元康と、公 (世良田二郎三郎元信) らが宿陣した場所、すなわち変事があった場所とは、この守山と近接した小幡が原であった。この小幡が原は、公が初めて旗揚げした旧跡と称され、かつては、名古屋の建中寺、万松寺、相応寺の支配地に定め、厳重の保護されていたことは、よく知られている。森と守は字は違うが、「森山」は、この「守山」のことだと認めて差し支えあるまい。そして、実際の変事があったのは、守山の近くの小幡が原だったのである。

<引用終了>

 野史研究家の八切止夫(やぎりとめお)氏も、同様の主張をされている。「小幡が原」は尾張徳川家によって三百年間もの間、農耕停止地とされ、先にあげた万松寺、建中寺、相応寺の輪番支配地となっていたそうだ。尾州藩史にそのような記述があるらしい。だが、なぜ、ただの草原を輪番にして、農耕停止地(つまり立ち入り禁止) にしていたのか、その理由は秘密にされていてわからないそうだ。この小幡が原は、現在では小幡緑地となって人々の憩いの場になっている。

 また、八切止夫(やぎりとめお)氏は、自身の著書『家康は二人だった』において、清康(きよやす)の時代の天文年間には、信長の父である信秀(のぶひで)は、清洲城(きよすじょう)には住んでなくて、 勝幡城(しょばたじょう)から 古渡城(ふるわたりじょう)に移り住んだばかりであったそうだ。 「森山くずれ」について書かれてある本には、決まって「清康君が信秀を清洲城から誘いださんとして」と記述されている。しかし、それでは当時の状況と合わない。

 また大久保彦左衛門忠孝(おおくぼ・ひこざえもん・ただたか)が書いた『三河物語(みかわものがたり)』には、「天地を響かせ四方に鉄砲をうちこみ、ときを上げさせたまう」とあるが、鉄砲伝来は天文十二年(のことなので、このことからしても、記述内容と年号の間に二十年ほどの相違がある。この事件は永禄四年(1561年)の元康殺しの事件(この頃、信長は 森山から10キロ西にある、清洲城に居た ) を天文四年(1535年)に書き換え、さらに元康を清康と書き換えてしまったものだ、と、村岡素一郎は、断定している。

 私は、岡崎市や豊田市に何回か足を運んでみた。だが、清康のほんとうの戦死地に関して、手掛かりらしいものは掴めなかった。せめてその土地だけでも見てみようと思い、上野・広久手( 双方とも豊田市内 )の近辺を車で走り回った。現在の上野町は小高い丘陵地帯の住宅街で、そこから西へ3~4キロほど走ったところの広久手町も全体的に丘陵地区で、住宅や工場、商店街が立ち並んだごく普通の町の景観だった。

  現在の愛知県 安城市 安城町 (あんじょうし・あんじょうちょう) にある安祥城(あんしょうじょう)跡 にも行ってきた。本丸跡は現在は、大乗寺(だいじょうじ)になっていて、二の丸跡は八幡社(はちまんしゃ)になっている。本丸跡の大乗寺の門前にある看板には、「かつては森城(もりじょう)と呼ばれていた」と書かれていた。

 同敷地内にある安城市歴史博物館にあった、安城市教育委員会発行の『安城の地名』(安城の歴史を学ぶ会―編)の348ページに興味深い記述があった。

<引用開始>

  森(里町)通称 里新田(さとしんでん?)のうち森のあった所か。もっともこの地方では林や森はヤマと呼ぶのが普通である。

<引用終了>

  実際に走りまわってみた豊田市の上野・広久手両町は、全体的に小高い丘陵地帯だった。かつては木々が生繁っていたとすれば、やはりこのあたりも、森(ヤマ)と呼ばれていただろう。上野町に隣接したところには「森町」という信号交差点があった。

 しかし、先ほど書いたとおり、図書館等で「日本の合戦記録」の資料をあたってみても、清康が生存していた時期にこの地域で合戦があったという記録を発見できない。この件については引きつづき調査を続ける。

 話が少しそれるが、この森山くずれの際、清康を刺した下手人の安倍弥七郎(あべのやひちろう)を、すぐさま切り殺したのは、家臣の植村新六郎(うえむらしんろくろう)ということになっている。ところが、この植村新六郎は、 続けて、(副島隆彦注記。十数年になるのか。)、清康の息子の松平広忠 (ひろただ 。 元康の父、すなわち一応、家康の父とされる) が、 織田方の重臣の佐久間全孝(さくまのりたか)の命令で、侍臣になりすましてもぐり込んでいた、刺客の岩松八弥(いわまつはちや) に刺し殺された時も、八弥を追い詰めてこれを切り殺している。同じ人物がふたつの手柄を立てたことになっている。

 さらに、元康が信長との同盟 のために(副島隆彦注記。私、副島隆彦は、同盟説を否定する。元康にすり替わった家康は、もともと二重スパイであり今川義元の軍事スパイでありながら、本当は信長に忠誠を誓っていたであろう) 、清洲(清須)城へ 翌年(1562年)3月に訪れたときも、(このときは、すでにほんものの元康は亡く、後の家康となる世良田元信とすりかわっている)、植村新六郎(うえむらしんろくろう)は、刀を持ったまま、片時も元康から離れずに寄り添っていたという。ただし、通史ではこの時寄り添っていた家臣は、植村正勝(同一人物か?) とされている。

  ちなみに南條典夫 氏によれば、 元康が清洲城へ入城しようとしたら、城門のあたりの見物人が「あれは元康どのではない」と騒ぎだし、家臣の本田平八郎忠勝(ほんだへいはちろう・ただかつ ) が慌てて大声で制した、という記録が『大成記(たいせいき)』に書かれているそうだ。

  この植村新六郎とういう家臣は、すこぶる怪しい。たとえ清康、広忠、元康の3代にまつわる史料の記述が、改竄(かいざん)もしくは虚飾されていたとしても、松平家二代にまつわる不幸な事件、それも同じような暗殺事件にかかわり、信長との清洲同盟の際にも、元康にぴったりと寄り添っていたというのだ。松平氏の三代にわたる重要時の、その瞬間に必ず横に居た者だ。 

 おそらく、今までの史疑研究家たちも、このことには疑いを持ち、調べただろうが、資料がなくて追求できなかっただろう。私は、植村新六郎、この男の正体を解明すべく調査を続けたい。

 話を元に戻す。現在の愛知県西尾市長縄(にしおし・ながなわ 前述した大浜のとなりで、こちらもほぼ三河湾に面している) にある長縄観音院 には、清康の仮墳(かりぼ)があることで、地元ではそれなりに有名だ。村岡氏が、「清康の森山くずれ」の疑惑の、本当の清康の暗殺があった地として根拠にあげているのが、「幡豆郡豊田村(はずぐん・とよたむら) 長縄観音院 の清康の仮墓 」だ。『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

 しかも、松平清康公の墓は、三河幡豆郡豊田村の長縄観音院の境内にある。【ここは、西尾の城主、松平和泉守の領地であった】この墓が発見されたのは、今よりむかし、寛政七年乙卯 (一七九五年) 四月二十三日のことである。この発見の際、江戸政府の寺社奉行、青山下総守(あおやましもうさのかみ)に上申された文書の大要を、下に抜き書きする。

 五輪石のうち、三つを掘り出したところ、何か文字が見えるので洗ってみた。しかし、はっきりとは読み取れず、色々と試したところ、清の字にも見え、その下は原の字にも見える。宗旨の御役人たちもこられて見分があり、考えられた。当院には、清康(きよやす)様の碑や御朱印〔公文書〕もあることなので、さらに土などを洗い落としてみたところ、下の字は康と読み取れ、一同恐れいった。 (中略) その後、御領主より、色々とお尋ねもあったが、御朱印を下された訳については、本寺でも一向に存じないのである。

 豊田村には大河内という旧家があるが、その先祖の大河内喜平小見(おおこうちきへい・しょうけん)という者は、清康公に仕えたという。同家の言い伝えによれば、喜平は、清康公がなくなった時、森山の陣中から、御遺骸をひそかに奉持し来り、同村の観音院に仮に奉納したという。

<引用終了>

 府中の称名寺の親氏の墓と同様に、ここでも墓石が埋められていたが、一体なぜ、埋められていたのか。また、なぜ寺社記になにも記されていないのか。普通に考えればそこに存在していては都合が悪いから、という解釈になる。では、清康の墓がそこにあって都合が悪い人はだれか。

 いくら証拠隠滅しようとしても、実際にそこまで、主人の亡骸を運んで、仮埋葬し、供養された人々の伝承までは封じることはできない、ということだ。

 私は地図で確認して分かったことだが、森山くずれが通史で言うとおり、現在の愛知県守山区の小幡が原で起きた清康の事件だとすると、敵地を迂回して現在の西尾市まで遺体を運んだというのは、その距離や地理的条件から考えにくい。このあと松平の家臣団は吉田 (現在の愛知県豊橋市) にまで逃れた、とも伝えられている。

 が、いくら昔の人々はよく歩いたといっても、名古屋市守山区から西尾市、または豊橋市へ辿り着く前に、途中に、碧南市や岡崎市 (当時の岡崎城主は清康である) 安城市や豊田市松平町などいくつもの味方領地 を通り越して、わざわざさらに 何十キロも遠く離れた地まで逃れたというのか。

 だから村岡氏が論じていることが正しい。村岡氏は、清康は、上野・広久手の合戦か、もしくは、安祥城の戦いで戦死したとする。そう考えると、距離的にも、地理的にも、亡くなった大将と重臣たちは大河内氏の拠点である西尾市へ、他の家臣団は豊橋市へ二手に分かれて逃れたというのは、名古屋の地元民である私としては十分納得できる。

 しかし、この件については、先にも申し上げたとおり私は、『史疑』村岡説の確証をまだとれていない。だから、あくまで推測だが、それでも、清康は愛知県守山区ではなく、村岡氏の主張どおり、上野・広久手か、安祥城で戦死したと思う。


二、世良田姓・徳川姓について

 世良田姓と徳川姓については、『家康傳』(中村孝也著)からよりも、南條氏の『三百年のベール』の記述の方が詳細で、理解しやすい。だから、そこから引用する。こっちは小説なので、登場人物である主人公の平岡素一郎 ( 村岡を一字変えてある) と部下の山根三造との会話形式になっている。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

 「先ず、君の方の戦果を聞こう。新田徳川の系図が、はっきり掴(つか)めたかね」
「じゃ、まず歴史上明確に分かっている処から始めます。鎮守府将軍八幡太郎源義家(みなもとのよしいえ)の第三子義国(よしくに)が下野国に流され、後、上野国新田庄に住し、その長子義重(よししげ)が、新田太郎と称して新田氏の祖となったこと、次子義康(よしやす)が下野国足利(あしかが)に住んで足利の祖となったことは、問題ないと思います。

 義重の嫡子義兼(よしかね)は、新田姓を継ぎましたが、次子の義季(よしすえ)は分かれて、新田庄の中の世良田・得川(とくがわ。副島隆彦注記。現地で、私は、5月19日に、元は、「とこがわ」であり、その名の川が流れていた、と地元の人から証言を得た) ・江田・横瀬 の諸郷を領し、始め得川(とくがわ)郷に居を構えて、得側(とくがわ)又は徳川(とくがわ)と称したと言います。

 これが世に言う徳川氏の呼称の起こりでしょう。この頃は同士族の家が区別する為に居住地の地名を称したことが多く、それもあて字は平気で使ったようですから、得川・徳川・徳河 など色々の文字が見えています。

 『吾妻鏡(あづまかがみ)』の中に頼朝の供奉人(ぐほうにん?)として、徳河三郎(とくがわさぶろう)の名が出ていますが、これは義季(よしすえ)のことでしょうな。この義季は、然(しか)し、晩年、世良田に移って世良田の姓を名乗り、その長子頼氏(よりうじ)は、世良田氏を継ぎ、次子は同じ新田庄の江田郷(えだごう)に住んで江田小次郎と言っています。従って、徳川の家名は、義季が、ほんのわずかの間名乗っただけで、その得川(徳川)郷を去った承久三年頃を限りとして消滅しています。

<引用終了>

 松永知彦です。宗家、分家も含めた松平家の中で、世良田姓を名乗ったのは、唯一、元康の祖父である七代清康(きよやす)だけだ。しかし、 『角川日本姓氏歴史人物大辞典23 愛知県姓氏歴史人物大辞典』の世良田の項に、『参河志 (みかわし) 』に世良田右京亮親忠(せらたうきょうのすけ・ちかただ)、世良田二郎三郎長親(せらたじろうざぶろう・ながちか)など 家康の数代前の名前が載る、と紹介されている。しかし、これは後世に書かれたものだ。

 また、『日本國誌資料叢書(そうしょ)』には、『浪合記(なみあいき)』からの引用で、「徳川有親(ありうじ)親氏(ちかうじ)父子」という記述がある。が、これなども後世に作者の思い込みで書かれたものだ。

 では、なぜ清康が世良田姓を使ったのか。結論から言ってしまうと、今もって謎だ。松平家はもともと在原(ありわら)の支流という伝承が先祖代々、地元にあって藤原系だ。

 世良田姓を名乗った理由として、通説は、三河を統一し尾張進出も視野に入れ、いよいよ天下にうって出るためには、源氏姓でなければ他の豪族たちとつりあいがとれなかったからだ、とする。これ以上の解釈は現時点では無理だ。

 清康が世良田姓で記されているものでもっとも有名なものが、愛知県岡崎市にある大樹寺(だいじゅじ)内に、建立された多宝塔の心柱に刻まれた文字で、「奉為逆修万疋奉加 大檀那 世良田次郎三郎清康安 城岡崎四代殿」だが、この他に三つの文書が残っている。

 岡崎市の大樹寺が発行する『大樹寺の歴史』には、漢文で正確に記されている。これでは内容がわかりにくので、『新編 岡崎市史 中世』からひとつ引用する。享禄四年(・・・年)八月の大林寺に与えた禁制だ

<引用開始>

     三州額田郡能見郷
         拾玉山大林寺境内
一、山林竹木を伐採するの事
一、陣取(じんとり)放火の事
一、殺生の事、
右条々、違犯の族においては、厳科にしょすべきものなり、よって下知(げち)くだんのごとし、
                   世良田次郎三郎
 享禄四年八月                 清康(花押)

<引用終了>

  松永知彦です。知立(ちりゅう)神社に対する禁制は、「治郎三郎 清康」(天文弐年となっている)と書かれている。だが、これに関しては、偽書の疑いがある。また、先ほど引用掲載した大林寺への禁制は、世良田姓で出されているものがあとひとつある。こちらは松平家の菩提寺である、大樹寺へ出された禁制で、「松平次郎三郎 源清康」(天文二年となっている)と書かれている。途中に「源」の字が差し込まれている。

 史料はこれだけしかなく、なぜ、清康は唐突に世良田姓を使ったのか。また誰の発案なのか、まったく不明だ。ちなみに大樹寺の多宝塔は天文四年(1535年)に建立されている。

 家康が、松平から徳川に改姓したのは、永禄九年(一五六六)十二月二十九日である。この時に、朝廷から従五位下(じゅごいげ)に叙せられて、三河守に任ぜられた。征夷大将軍に任ぜられたのは、慶長八年(一六○三)なので、徳川に改姓してから三十八年後だ。征夷大将軍に任ぜられる上で源氏系の姓は都合がよかった。

 が、なぜ家康はその約四十年前に、松平から徳川に改姓したのか(副島隆彦注記。 松平から徳川に姓を変えたのは、1566年12月29日。朝廷の許可を得てやったことになっている。このことは歴史年表にも載っている)。

 一般的な学説は、先ほども述べたように、朝廷から従五位下、三河守(みかわのかみ)に任官されるには、いわゆる「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)でなければならなかったためだ、とする。正式に「三河を完全に平定し、一国の主である。」と示す独立宣言であったというものだ。しかし、松平家も、藤原系の由緒ある家系である(とされている)。松平のままでは、ほんとうにいけなかったのか。説得力のある説明はどこにもない。徳川だって源氏の支流だ。もっとも源氏や平氏のほうが当時は藤原よりも格が上だったかは分からない。

 『新編 岡崎市史 中世』によれば、近衛家(このえけ。副島隆彦注記。藤原系の五摂家の筆頭)が所蔵する『将軍家准摂(じゅんせつ)徳川家 系図 事東求院殿 御書』にある「徳川は源流にて二流の総領の筋に藤氏に罷成 候例 候」という記述あること。それと家康が一時、藤原家康と署名した文書があること。

 またそれらは偽作ではないこと、さらに家康の子秀忠が、天正十八年(1590年)に没した継母(けいぼ)豊臣氏(朝日姫、あさひひめ。副島隆彦注記。秀吉から和睦で無理やり家康の正室として、押し付けられた、秀吉の実の妹。すでに45歳ぐらいの老婆であった )の 諷誦文(ふうしょうぶん) に 藤原秀忠と署名していることなどを根拠にして、永禄十年から慶長七年まで、徳川氏は、藤原氏であった、と解説している。

 『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】』にも「藤原姓徳川となったが、のち、源氏姓徳川に乗り換えている」と素っ気なく書かれている。この徳川姓藤原支流説は、興味深い研究ではあるが、しかし、根本的な疑問である「ではなぜ、徳川に姓を変えたのか?」に答えていない。この疑問は、家康、本人にきいてみるしかないような類のものだ。

 諸書によれば、松平家の家紋は「五々の桐」をはじめとする桐紋(きりのもん)だ。それに対して徳川家の家紋は言わずと知れた「三つ葉葵」だ。また、松平氏はもともと「剣銀杏(けんぎんちょう)紋」を使用していたとする説もある。実際、八代目の広忠(ひろただ)の墓には「剣銀杏紋」が彫られていたという。村岡氏は、家康が先祖代々受け継いできた「桐紋」からまったくちがう「葵紋」に変えたことを、おかしいと指摘している。

 徳川家が「葵紋」を選んだことの理由として二説が、『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】』に記載されている。

<引用開始>

  徳川将軍家の葵紋の由来にはいろいろな説がある。葵紋は、そもそも京都賀茂(かも)神社の神紋であった。葵祭り(あおいまつり)には社前を飾り、神官・職員も衣冠につけ、車や御簾(みす)にもかける。

 この紋を徳川家が家紋として使うようになったのは、3代家光が賀茂朝臣(かものあそん)を称してからだという。

 また、愛知県宝飯郡(あいちけん・ほいぐん)にある伊奈城(いなじょう)跡には、三葉葵(みつばあおい)の起源を伝える葵ヶ池(あおいがいけ)がある。伊奈城主の本田正忠が松平清康 を城中に迎えて、水葵の葉に肴(さかな)をのせて馳走(ちそう)したところ、清康はおおいに喜んで、「葵は汝が紋なり。我に賜(たまわ)らん」と言って本田家の家紋を譲り受けた、という言い伝えもある。

<引用終了>

 こういうおかしなことを書いている。 つづいて、村岡素一郎氏の外孫にあたる、作家の榛葉英治(しんばえいじ)氏が、『改定新版 日本史の謎』(世界文化社、〇〇年刊)の251~255ページに書いている。この『徳川家康"替え玉説"の真相』の中にも、葵紋に関する記述があるので引用する。

<引用開始>

 家康は上州(今の群馬県)徳川郷を御朱印地(ごしゅいんち)、不輸不入(ふゆふにゅう。免税) の地とした。さらに三代将軍家光(いえみつ)は、日光東照宮を大改築した際に、その古宮を先祖ゆかりの地の新田郡世良田村長楽寺(ちょうらくじ)に東照宮として移した。(副島隆彦注記。これが、徳川東照宮という、寂(さび)れた、みすぼらしい神社として今の残っている。 それを私は、2014年5月19日に現地に行って確認してきた。)

 家康が松平家の者であるならば、姓については、松平家康 と名乗る

(副島隆彦注記。松平元康という名を、「家康」に変えたのは、1563年7月6日。歴史年表にも載っておる。そして、この直後から、松平郷全体で、「おかしい」という怒りが起きて、?「三河一向一揆」が勃発している。私、副島隆彦の考えでは、これは、岡崎城主=すなわち自分たちの一族の頭領である元康が殺されてすり替わったので、それに対して、一帯の松平氏が、反乱を起こしたのだ。だから、正しくは、「松平一族の反乱(内紛)」と訂正すべきだ。 この松平氏諸族の岡崎城を中心とする三河一帯での反抗は、翌1564年2月28日には、鎮圧、平定された。)

 ほうが自然だ。松平の家紋は「五々の桐」であり、徳川は「葵」である。上州の世良田村には葵の紋の家が多くて、別名、葵村ともいわれた。

<引用終了>

 松永知彦です。家康が、すり替わったあと2年で、徳川の姓を名乗ったのは、やはり、もともと松平家とはなんの関係も無い人間だったからだ。また、祖父とされる清康(きよやす)が、世良田(せらた)姓を使っている、にもかかわらず世良田姓を選ばなかったのは、元康の死後、入れ替わったときに、一度その姓を捨てているためである。また元康自身はすり替わったあとは、世良田姓を一度も使わなかったことに起因している。

 その前は、世良田二郎三郎元信(せららじろうさぶろうもとのぶ)と名乗っていて、すり替わったあと松平蔵人元康(まつだいらくろうど・もとやす)と同一であることが、露見してしまうのをおそれたからだ。 源氏系の中でも特に希少な徳川姓を採用したのは、実父が上州の徳川郷に由来する人物だとの確証が、家康自身にあったからだろう。徳川姓を採用したのはこのような事情からだろう。

 また、葵紋を使ったのも同様の理由で、先祖が、上野国新田郡世良田庄 得川郷(とくがわごう )の通称「葵村」の出生であることになんらかの確証があっただろう。

 先に引用した『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】』から引用した2説、とりわけ後者の、清康の肴にまつわる伝承については後世の創作であろう。


三、清康の側室とされる 源応尼(げんおうに) について

 通史では、幼い頃の家康が駿府(すんぷ)在住のころ、祖母である源応尼( 俗称お万 =まん=) に世話をしてもらった、という。通史でいわれているこの逸話は、史料によっては、居住地や年数などに若干の相違はある。数々の文献や史料、伝承や事績などによりほぼ間違いないだろう。なにより、家康自身が、華陽院(けいよういん・静岡市)の扁額(へんがく)として残っているのだが、「幼少時、(私は)この地(駿府)で、祖母源応尼(げんおうに)の慈愛に触れた」と自著で書き残している。この寺の扁額は第二次大戦の戦乱で最中(さなか)に焼失しているが、『史疑』にしっかりと全文が書き写されている。

 祖母というぐらいだから、源応尼は、家康の祖父である清康(きよやす)の奥さんでなければならない。そして、この源応尼は、家康の実母である於大(おだい)の母親でなければいけない。ところが、事態はそうは簡単にはいかない。

『新編 岡崎市史 中世』より引用する。(副島隆彦注記。この本は、地方自治体が書いて出している正式の市史だから、あんまりひどいウソは書けない。そこで、しどろもどろの書き方になっている。)

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

 家康の父は広忠(十六歳)、母は水野忠政(みずのただまさ)の女(むすめ)於大(おだい)(十五歳)。二人の婚姻は天文一○年(1582年)のことあったが、この婚姻は政略的なものであるとともに祖父清康(きよやす)の影をひいたものであった。 (中略)

 清康の影とは、『松平記(まつだいらき)』がいう「広忠(ひろただ)の御前(ごぜん。正室)は水野右衛門大夫(忠政)女(むすめ)也、広忠と行逢 の兄弟也、父清康、広忠をもうけて後、水野右衛門大夫後家(ごけ)宮善七女(みやのぜんひちのむすめ)を迎給(むかえたま)ふ故也(ゆえなり)」とあるものである。

 すなわち、広忠は、清康と青木貞景の女との間の子、於大(おだい)は忠政と大河内元綱(もとつな)女於富( 宮善七女、一説に青木式宗(しきむね) 女との間の子で、於富(おとみ) は忠政の死後は清康の妾となったから、広忠と於大は父母は異なるものの兄弟という関係によるものである。(中略)

 問題になるのは清康の三人目の妻となる於富(おとみ)である。『松平記』は於富は水野忠政の没後、(その子)清康の室となったというが、忠政は、清康に遅れること七年の天文一二年(1584年)七月一二日に五一歳で没しているから( 『寛政重修緒家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』 )、これは正しくないことになる。

 また、忠政と於富の間の子とされている子供五人のうち生年の知られる四人の生まれは、忠守(ただもり)が大永五(一五二五)年、於大(おだい)が享禄元(一五二八)年、忠分(ただわけ?)が天文(一五三七)年、忠重(ただしげ)が天文一○(一五四一)年となっており、於大と忠分の間に近信がいることを考えると、於富は清康の妻となった可能性は皆無といってよかろう。

 それにもかかわらず、『松平記』のみならず近世の幕府編纂の諸書までが、於富は清康の死後は星野秋国(ほしのあきくに)、菅沼興望(すがぬまおきむ)、川口盛佑(かわぐちもりすけ)と、さらに三度嫁したというのは、一体何によった話であろうか。さらに竹千代(家康)の駿府在住時代に、源応尼(げんおうに)と称して、竹千代を一六歳まで養育し、七○歳で永禄三(一五六○)年に没したというにいたっては、どう解釈してよいのか判断に苦しむ。守山崩れで清康が二五歳で死んだ折、於富は四○をこえていた計算になるからである。

 なお、天文九年の安城(あんじょう)合戦で討死した源次郎信康(みなもとのじろう・のぶやす)を清康と於富の子とする説もある。当時(息子の)広忠(ひろただ)は一五歳で、弟という信康 (副島隆彦注記。ここでは、一体、何を書いているのか、もはや意味不明。 元康が広忠の息子である。さらに、信康はその元康の長男坊である。

 それなのに、「弟という信康」と書いている。もしかしたら、信康という人物が二人いたのか。 ) はそれ以下の元服間もない一二、三歳となろうが、それでも享禄元(一五二八)年か二年頃の生まれとなる。これは於大(おだい)と同い年位となって、到底成り立つ話ではない。

 とにかく、於富なる人物の生涯は謎だらけであるが、それが何の不都合もなく通用していた時代があったことも事実である。

<引用終了>

 松永知彦です。このようにおかしな記録になっている。家康の祖母の源応尼(げんおうに)は、家康の幼少時に駿府で彼の世話をしたことは事実である。だから、岡崎城主・松平清康の妻だった、というのは、明らかに成り立たない。この泥縄の辻褄合わせを受け入れると、三河の松平家(岡崎城主)との関係が分からなくなる。

 これは結局のところ、源応尼( 俗称お万、またはお萬)と於富( 清康の本当の妻だった女性)とは、別人物だというだ。それに、そもそも名前が於富とお万だから全く別人なのだ。少し 前までは、家康の祖母はお万(または、お萬)のほうが一般的には多用されていたはずなのだ。事実は、大河内元綱の娘で岡崎城主の清康の妻なったのが於富であり、ずっ駿府(今の静岡市)にいて宮の善七の娘という女が、お万(源応尼)だ。

 徳翁斉と徳阿弥、松平元康と世良田元信、そして今回の、於富とお万ですが、もともと、全く別の二人の人生を、ひとつにしてしまったから、古文書の記述があまりに多岐に乱れ、各地の伝承や事跡と辻褄が合わなくなったのだ。

(副島隆彦注記。松平元康謀略で殺して、すり替わったので、どうしても、その配偶者や親兄弟の家系までも無理やり捏造しなければいけなくなったのだ。そして、どうしても辻褄が合わなくなってしまう。)


   『学界の反論』への反論

一、銭五貫と銭五百貫

 私が前章で引用した、『改定新版 日本史の謎』(世界文化社、〇〇年刊)の榛葉(しんば)氏の『徳川家康"替え玉説"の真相』の次、256~257ページの見開き2ページにわたって、静岡大学教授である小和田哲男(おわだてつお)氏が、『替え玉説-学界の反論 学界の最先端から見た「徳川家康替え玉説」 』という見出しで、村岡『史疑』に対する反論を展開している。

 たった限られた二ページの中で、「 『駿府記(すんぷ)』の記述に対する解釈の仕方と、「世良田姓」の二つでもって「"家康替え玉説"の成り立つ余地はないといえよう」と結論づけている。だが、大和田哲男の反論が、まるで反論になっていないと私は思う。

 再び礫川(こいしかわ)氏に再登場願って、「学界の反論」に反論したいと思う。
 
 この小和田氏の反論文はいつ書かれたものか分かりませんが、『日本史の謎』(2005年1月1日発行と表紙カバー裏面に書いてある ) は、現在でも書店で注文すれば購入できる。だから、日本史学界の最新の見解として、とりあげる。尚、榛葉英治(しんばえいじ)氏は、一九九九年二月に、八十六歳で亡くなられた。

小和田哲男教授の主張を、私たちが正確に理解する為に、少々長いが引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

 村岡素一郎が「替え玉説」を思いついたのは、『駿府記』の慶長十七(一六一二)年八月十九日の記事だったといわれる。『駿府記』の原文は漢文なので、ここでは、八月十九日の記事部分をつぎに読み下しにして引用しておこう。
 (中略)
 
(大御所様が)御雑談の中、昔年、御幼少の時、又衛門(又右衛門)某ト云う者あり、銭五百貫御所に売り奉るの時、九歳より十八、九歳に至る。駿河国に御座の由(よし)談ぜしめ給う。緒人伺候(しょじんしこう)皆これを聞くと云々。

 村岡素一郎はそこに、「(家康が)昔、幼少の時、又衛門という者に五百貫で売られたことがある」と記されているのに注目し、幼少時代の事績に疑念を抱き、いろいろと調べた結果として「家康替え玉論」を導き出したというわけである。

 『駿府記』は、その異本『駿府政事録』とともに著者は不明である。林羅山ともいい後藤庄三郎(ごとうしょうざぶろう)ともいわれている。著者は不明ながら、書かれている内容は正確で、史料としての信憑性の点では定評がある。

 史料的価値の高い『駿府記』に「わしは幼いころ、五百貫で売られたことがあった」と、家康が近臣たちに話していたわけで、村岡素一郎はこの記事をもとに、ささら者出身の子どもが願人坊主酒井常光坊(さかいじょうこうぼう)に売り飛ばされたという話を作っていったのであった。
 
 では、史実としてはどうなのだろうか。『駿府記』がうそを書いていたととらえてしまうのは早計である。『駿府記』の記載に間違いはなく、むしろ、村岡素一朗の読み取り方の側に問題があったとするのが、学界の主流的な考え方である。
 
 実は、家康が、「わしは幼いころ、五百貫で売られたことがあった」と述懐したことに対応する事件があったのである。天文十六(一五四七)年八月のことであるが、そのころ竹千代といっていたのちの家康は、松平広忠から今川義元のもとに「人質」として送られるべく、岡崎をでて、渥美半島の田原(たはら)経由で駿府に向かっていた。

 ところが、田原城主戸田康光(とだやすみつ)が竹千代一行をあざむき、舟に乗せて尾張に運んでしまい、織田信秀に渡してしまったのである。そのとき、戸田康光は信秀から謝礼としてお金をもらっており、竹千代の側にしてみれば、織田側に売り飛ばされたとおなじことであった。
 
 事実、大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもん・ただたか)の著した『三河物語』には、「田原之戸田少弼殿(とだしょうのすけ)ハ、広忠之御為(おんため)にハ御婚なり。竹千代様之御為にハ継祖父なり。然共、少弼殿、織田之弾正之忠(おだだんのじょう・これただ)え永楽銭(えいらくせん)千貫文に、竹千代様ヲ売サせラレ給ひて・・・・」とみえ、竹千代が、売られたという表現を使っているので、そうした意識があったことはまちがいない。

 つまり、『駿府記』に、「わしは幼いころ、五百貫で売られたことがあった」という家康の言葉がみえるのは、村岡素一郎がいうように、願人坊主に売られたことをさしているのではなく、「人質」として本来今川方におくられるところを、敵織田方に横取りされたことをさしていたと見るのが正しい見方である。

<引用終了>

 松永です。この小和田哲男の解説文には、最初の章で、私が重引用した、桑田忠親(くわたただちか)氏が書いたあらすじと共通している箇所がある。『駿府記』と「銭五百貫」そして、この時の事件についての見解だ。
日本の戦国時代を専門とする二人の日本史学者は、『駿府記』の「銭五百貫」を元に話をすすめているが、ここで礫川(こいしかわ)氏の桑田氏に対する反論文を『史疑 幻の家康論』から引用する。

<引用開始>

 桑田氏はこう反論する。『駿府記』の記述は、竹千代が駿府に送られる途中戸田康光に奪われ、銭五百貫文で織田信長 (引用者注※:ここが、織田信秀ではないことに注目 ) に売られた史実に基づいている。何も不審を抱く必要はない、と。桑田氏の反論は詰まる所これだけである。(中略)

 桑田氏が言及している、その一点についての反論が、(それ自体が)ごまかしなのである。『史疑』のどこを見ても『駿府記』の引用はない。「銭五百貫」という言葉もない。村岡素一郎は『駿府政事録』を引用し、そこに「銭五貫」とあるのに注目しているのである。(しかも、別に村岡は、これが研究を始めた動機だったと言っているわけでもない。)

 相手の主張を改竄して紹介し、それに反論するというのでは反論とはいえない。それ以前にフェアーでない。なぜ桑田氏は『駿府政事録』をあえて『駿府記』に置きかえたのか。「銭五貫」を「銭五百貫」にすりかえたのか。

<引用終了>

 松永です。礫川氏はこのあと『駿府政事録』と『駿府記』の違いについて、ひとしきり解説しているが長くなるので、要点のみ簡単に説明する。『駿府政事録』は『駿府記』から和臭(わしゅう)を取り、漢文体の公式日記としてあること。また『駿府記』にはない家康・秀忠と林羅山(はやしらざん)との論議が詳述されていることなどが主な違いで、表現は若干違うが書いてある内容はほぼ同じだ。

 また、『駿府記』のほうは、『史籍雑纂』(しせきざっさん)の第二に収録されている。しかし、『駿府政事録』のほうは『脱漏(だつろう)』の一巻のみが、『改定史籍収集覧』の十七巻に納められているのみだ。私も双方とも、愛知県立図書館の閉架で確認した。

 『駿府記』の著者はおそらく林羅山だろう。しかし、『駿府政事録』の著者は、林羅山説と後藤庄三郎光次(ごとうしょうざぶろう・みつつぐ)説がある。理由は説明しないが、私は後藤光次説を支持する。引用を続ける。

<引用開始>

 桑田氏は両書を同一のものだと考え、無意識に『駿府政事録』を『駿府記』と置き換えてしまったのだろうか。しかし、桑田氏は、慶長十七年(1612年)八月十九日の候(こう。個所のこと)で、両書の記述に違いがあることを知っていたはずである。やはりこの「置き換え」は許されることでなない。(中略)
 
 あるいは、こうしたことが言えるかもしれない。『駿府政事録』は、ほぼ『駿府記』を筆写したものである。駿府記にある「銭五百貫」を写し誤り、「銭五貫」としてしまったのではないか(こういう誤りはありがちだ)。少なくとも、桑田氏はそのように考えていた可能性がある。氏はそうした考えた上で、気をきかせて、先のような差し替えをおこなってしまったのではないか。桑田氏の「差し替え」を善意に解釈すればこうなる(だとしても、氏がその旨を説明してないのは論外だが)。 (中略)

 私が、銭五百貫、銭五貫にこだわるのは、その差があまりに大きいからである。銭四貫で一両とすると銭五貫は一両強。当時の物価はよくわからないが、今日でいえば大体十数万円といったところだろう。ところが銭五百貫では一二五両、今日の一千数百万円にも相当するだろう。

 素性の知れない小坊主を誘拐して売り飛ばす金額としては十数万円がふさわしい。しかし、人質となるはずの武将の嫡子を奪取し、取引先の材料とする際には、一千数百万という額が妥当だろう。この差は重大なのである。

 にもかかわらず桑田氏は、『史疑』にある銭五貫文を勝手に銭五百貫と差し替え、あたかも、村岡が最初からその前提で議論を進めていたかのように作為している。これはどう考えてもフェアーではない。はっきり言えば極めて疑わしい態度である。

 村岡素一郎はこう推測していたはずである。家康は、晩年、親しい者たちの前で、ついうっかり自分が、「銭五貫」で売られた事実を口にしてしまった。一座の者は意外な言葉に驚き、あっけにとられた。史官はこれを深く印象に刻み、記録に残した。念のため史官は、「緒人伺候、衆皆聞之」(その場に居たものは、皆これを聞いた)と書き添えることを忘れなかった。

 村岡説は決して妄説ではない。「銭五貫」が真実で、「銭五百貫」の方が真実を糊塗する「政策的」改竄である可能性も否定しきれないではないか。

<引用終了>

 松永知彦です。上記の引用文の「桑田氏」を「小和田氏」に置き換えるだけで、それ以上何も言う必要がない。

 ここで、問題の家康本人の述懐について、『駿府政事録』と『駿府記』との記載のちがいを引き続き『史疑 幻の家康論』から重引用する。

<引用開始>

 ○御雑談の内、昔年御幼少之時、有又衛門某云者、銭五貫、奉売御所之時、自九歳至十八九歳迄、御坐駿府之由、令談給、諸人伺候、衆皆聞之云々。
〔『史疑』 引用文、返り点略〕

 ○御雑談之中、昔年御幼少之時、有戸田又右衛門某者、銭五百貫奉売御所之時、自九歳十八九歳、御坐駿河国之由、令談給、諸人伺候衆皆聞之云々
〔国会図書館写本、返り点なし、読点は朱筆〕

 ○御雑談中、昔年御幼少之時、有又右衛門某と云う者、銭五百貫奉売御所之時、自九歳至十八九歳、御坐駿河国之由令談給、諸人伺候皆聞之云々
〔『駿府記』刊本、返り点略〕

<引用終了>

 松永知彦です。二つ目の国会図書館写本というのは、礫川氏が直接確認した『駿府政事録』の写本だ。天保七年(1836)に、林衡(はやしひら。林羅山の子孫)が写したものだそうだ。

 現在のところ、『駿府記』の成立は『駿府政事録』以前とされているが、礫川氏の、その後の研究によればそうとも言えないらしい。どうやらこの二つ以外に『駿府日記』というものがあった。これも林羅山が書いたものらしいが、はっきりとはわからない。大火(副島隆彦注記。1657年明暦の大火。同年、林羅山死去。 )で焼失してしまって、現在に伝わっていないが、『駿府記』にしても『駿府政事録』にしても、どうもこの『駿府日記』を写した可能性がある。だからどちらが先なのか、ということは厳密には決められない。

  この小和田氏からの反論文に対して、私、松永にもひとつ言わせてもらう。小和田氏は、「銭五百貫で売りわたされた話は、田原城主戸田康光が、竹千代一行を騙して、田原から(潮見坂という説もある)熱田まで行き、織田信秀に売ったことである」と通史でいわれている通りのことを書いている。が、村岡氏はこの事件についても、古文書を根拠に、独自の見解を示している。『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

 この熱田上陸ののち、公 (注:世良田元信) らは、(さらって来た)幼君竹千代をどこに置いて介抱したのか。諸書には熱田大宮司に納(い)れるとあるが、肯(うなづ)けない。

 左の文書は、熱田の住人、加藤忠三郎(ちゅうざぶろう)の家に伝えられてきたものである。そこには、事実や、年齢などについて若干の錯雑分乱(さくざつらんぶん)が見られるが、幼君竹千代が加藤の宅に寄寓した事実を記した文書であることに変わりはない。
 
 東照宮様(とうしょうぐうさま)が御幼年の時、今川義元の人質となっておられたのを、三州田原城主、戸田弾正忠憲光(とだだんじょうのりみつ)とその子息五郎(ごろう)が、三河の塩見坂(しおみざか)で奪い返し、織田信長公へお送り奉った。

 そして、加藤図書助(かとうずしょのすけ)と加藤隼人助(かとうはやとのすけ)の両名に対し、内府〈内大臣〉信長公より、よろしく養育するようおおせがあった。こうして図書之助宅に、六歳から八歳までおられた。

 この間、加藤隼人佐の妻よめ〈名前か〉、これは図書之助の娘にあたり〈隼人佐は図書之助の入婿か〉、また忠三郎の母にあたりますが、このよめが、東照宮様のために日夜お世話をいたし、その際、御退屈をお慰めするために、御前にて造って差し上げ、もてあそんでいただいたのが、この雛人形である。右の御書(おんかき)、証書類十一通、梨子地(なしじ)の御杯(ごはい)、桐の御紋、陳馬織(じんばおり)各一、雛人形二対、これらを当家伝来の宝とする。

 右の書中、「内府信長公 被仰付 」(内府信長公ヨリ仰セ付ケラレ)とあるが、(家康)公が六歳(1543年生)の時は、信長はまだ十四歳(1535年生)にすぎない。(このことから)この人質(の赤子)が、東照公ではなくて、(松平元康の長男の)松平信康(のぶやす)であったことがわかる。この時、すなわち永禄三年(1560年、5月20日が桶狭間の戦い) の時点で、信長は二十七歳、公が十九歳、幼君信康は二歳であった。

 書中、六歳の男児に雛人形を差し上げたとあるのも、よくわからない。しかし二歳の幼児に、おもちゃとして与えたというのであれば、やや腑に落ちる。また、盃に桐の紋章があったとあるが、桐は松平の定紋である。この記述は、右の文書が考証に足るものであることを示している。

<引用終了>

 松永です。通史では、この人質奪取の事件は天文十六年(1547)にあったことになっている。そしてこの時、信長は十四歳だ。八歳違いである竹千代と呼ばれていた家康は六歳だ。人質となっている竹千代と、信長はここ(副島隆彦注記。通史では熱田神宮で、ということになっている)で、親友となったと通説にはある。

 が、十四歳の信長が六歳の竹千代(のちの家康とされる)と、親友のような間柄になった、とはちょっと考えにくい。(副島隆彦注記。いくら何でも、通史のバカ学者どもであっても、このことがどんなに荒唐無稽か、気づくはずである。) 

 通史では、家康は尾張で二年間の人質生活ということになっているから、信長が十八歳で、竹千代が八歳になったとしても、信長はこの時、すでに濃姫(のうひめ。美濃の斎藤道三の娘)と夫婦であるから、そのような男が、八歳児と親友とは、なおさら考えられない。そして、六歳から八歳の武将の子に雛人形はないでしょう。

 この時の人質は、だから、真実は、松平元康の子で、当時一、二歳であった信康でなければおかしい。 (副島隆彦注記。私の研究では、2歳で駿府からさらわれたてきた信康は、渥美半島からぐるりと回ったところにある三河湾の篠島(しのじま)、日間賀島(ひまかじま)あたりに匿(かくま)われている。そして、一年後ぐらいに、世良田元信が、「元康公のご長男、信康公を、私が、救い出してきましたぞ」と、岡崎城に持ちかけて、和睦をなし、そして、まんまと世良田元信の徒党(ととう)が、岡崎城内に入り込んだのである。それが、1561年中に起きたことだ。)

 そもそも'岡崎三郎'松平信康は、その後、信長の末娘である五徳(ごとく=徳姫、とくひめ)を妻にしている。このことは周知の事実だ。(副島隆彦注記。この結婚は、1567年(永禄10年)である。計算すると、信康も徳姫もどちらも9歳前後である。信康は、自分の父親の元康が、信長の謀略で1561年に殺されて、自分は形ばかりの岡崎城主にされて、21歳まで生かされたことに、自覚があっただろう。)

 通史では、信長が五徳を信康の嫁にすると決めたのは、清洲同盟(1562年1月)の時とされている。 信長は荒い気性とはうらはらに子煩悩であったという話もある。「熱田の万松寺?で信長と人質の竹千代が親友となった」という通説 は、ここで信長が、自分の元に連れて来られた竹千代(信康)をかわいがった、という伝承のすり替えだろう。

 (副島隆彦注記。私の研究では、さらわれて隠されていた2歳の赤子の竹千代=信康は、信長の元に送られたのはにせものの赤子で、本物の信康は、ずっと世良田元信の管理下にあって、そのあと、岡崎城の元康との和睦交渉で使われて、一年後に、岡崎城に帰っている。)

 信康は、松平元康の長男であるにもかかわらず、21歳の若さで(家康に)切腹させられるまでに、生涯、松平姓も徳川姓も名乗っていない( 名乗らせてもらえなかった?)。 このあたりの経緯に、なにか重大な事実が隠されているような気がする。

 ともかくも、人質になった竹千代は信康だから、実際の年号は永禄三年(1560)から四年(1561)あたりとなる。それでは、戸田弾正康光は、誰から竹千代を潮見坂(しおみざか)で奪ったのか。(副島隆彦注記。ここからあとは、松永説を、私が消しました。筋道が通らない。)

 八切止夫(やぎりとめお)氏によれば、岡崎城主の元康と正妻の瀬名姫(せなひめ。築山殿) 夫婦のもとに、駿府で盗み出した竹千代(信康)を奪ってしてきた世良田元信・・・・(意味不明)・・・・1560年5月20日に、桶狭間で( 副島隆彦注記。桶狭間は、事実は、桶狭間山(おけはざまやま)であり、その南に300メートルぐらい下ったところの 田楽坪(でんがくつぼ)で、今川義元は首を取られた。今は、「古戦場跡」という小さな公園になっている。現場で確認してきた。)  

 主君の今川義元が信長に討たれたあと、どうしていいか分からないままに、自分の居城の岡崎城へ戻ってきて立て籠もった松平元康が、今川義元の弔い合戦をしようとしてか、自分の子供(信康)を連れ帰ってきたので信頼してしまって、城内に入れてしまい、自分の見方だと思い込んでしまった、世良田元信にそそのかされて、永禄四年に尾州森山(びしゅうもりやま)へ出陣した。

 ところが、元康は、小幡が原(おばたがはら)で背後から斬り殺された(1561年12月4日)。そして、世良田元信がこれに入れ替わり、まわりの重臣たちを押さえ付けて、その後、計画通り、翌々年1562年の1月には、信長のいる清州城に参上して、「清洲同盟」を結んだ。

 (副島隆彦注記。私の説では、初めから世良田元信は、今川方の戦争スパイでありながら、本当は、信長のスパイであった。だから、元信=のちの家康は、初めから信長の家来であった。これが、副島隆彦説である) ・・・・・村岡氏の説とは若干違いますが、八切氏の説のほうがすっきりしていて無理がない。

 こここで引用されている加藤家所蔵の古文書の真贋(しんがん)は、私、松永知彦には判断できない。ところが、小和田哲男静岡大学名誉教授は、大久保彦左衛門忠教(ただたか)の『三河物語』の記述を根拠として、通史のとおりだと主張する。もし、小和田氏が、村岡氏の見解について、反対するのなら、もっと明瞭な根拠をたてて反証すべきだ。

 大きく膨らました作り話と手柄話ばかりが書いてあるので、今では日本史学界で信用されていない『三河物語』が根拠では、あまりに説得力に欠ける。そして、『駿府政事録(すんぷせいじろく)』にはっきりと書かれている家康自身の述懐(じゅっかい)との整合性を示さなければならない。 

 榛葉英治(しんばえいじ)氏が、ご自身の著書『史疑 徳川家康』(雄山閣出版、〇〇年刊 )の中で主張しているとおり、林羅山が書いた『駿府政事録』の記述を、書いてある通りに解釈するのが正しい。そこには、「幼少の頃、(戸田彈正康光でなく)又衛門某に、(銭千貫文ではなく)銭五貫文で売られ、(熱田ではなく) 駿府(駿河国)に九歳から十八、九歳まで居た、と家康が皆の前で語った」と書かれているのである。

 次に、世良田姓を根拠としたことの、小和田氏からの反論だ。まずは、小和田氏の主張を、同じく『日本史の謎』から引用する。

<引用開始>

 さて、村岡素一郎が「家康替え玉説」を思いついたもうひとつの要素が家康の名前である。『史疑 徳川家康事績』を読んで気がつくことは、別な人物が家康にすり替わっていく上で、名前の変化が関係しているという点である。村岡素一郎は、家康に関係する史料を調べていくうちに、世良田二郎三郎元信という名前にぶつかり、これを、のちの家康の松平元康とはちがう人間であるととらえたことがそもそもの出発点だったように思える。

 たしかに、松平元康という名前にくらべ、世良田二郎三郎元信という名前はあまり一般的ではない。明治三十五年(1902年)といえば、松平氏の系譜研究も今日ほど進んではおらず、ある意味では仕方のないことではあったが、村岡素一郎は、強引に、この世良田元信が松平元康を殺し、元康にすり替わり、それがのちの家康になったとしているのである。

 ところが、松平氏の系譜を調べていくと、家康=元康=元信の祖父清康が大檀那となって大樹寺(だいじゅじ)に多宝塔を建立したとき、その心柱に「世良田次郎三郎清康」と書かれているのでまちがいはない。また、元康と名乗る前、元信と名乗っていたことは、「大泉寺(だいせんじ)文書」や「高隆寺(こうりゅうじ)文書」などによっても明らかなので、名前の点からも「家康替え玉説」の成り立つ余地はないといえよう。

<引用終了>

 松永です。以上が、世良田姓を根拠としたすり替わり説への小和田氏からの反論だが、かなりの部分に違和感がある。何の説得もできていない。ただの居直りのひどい文だ。

 小和田氏は、「村岡素一郎が「家康替え玉説」を思いついたもうひとつの要素が、家康の名前である。(中略)村岡素一郎は、家康に関係する史料を調べていくうちに、世良田二郎三郎元信という名前にぶつかり、これを、のちの家康の松平元康とはちがう人間であるととらえたことがそもそもの出発点だったように思える」と書いている。が、これは誤解でだ。村岡氏が家康の出自に疑問をもつきっかけとなったのは、以下の八つだ。『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

 第一着。 明治二十年(一八八七)ごろ、東京毎日新聞の付録として、家康の画像が配布された。これはもと秋元(あきもと)子爵家秘蔵のものだそうだが、これがどう見ても貴人の相には見えない。館林(たてばやし)善導寺(ぜんどうじ)に蔵するものも同様という。これが、家康の出自について(私が)疑惑を抱いた第一の理由である。」

 第二着。(松永です。二着目は、前述した、府中称名寺(ふちゅうしょうみょうじ)において親氏(ちかうじ)の墓が発見されていたことです。)

 第三着。徳川家では、毎年正月元旦に(江戸城内で)羹(あつもの)を食べる佳例(けいれい)があった。これは、徳阿弥が(親氏)が、永禄十二年(1440) の正月元旦に、信濃の山奥で林藤介(はやしとうすけ)の家に泊めてもらった折に、兎の羹(あつもの)をすすめられ、以来武運が開けた故事に由来するという。松平家に入婿(いりむこ)としてはいった時宗の行者にかかわる故実だとはとても思えない。

 第四着。家康の正妻築山殿(つきやまどの)が殺害され、その子信康(のぶやす。岡崎城主 )が(二股城まで連れてゆかれて)切腹させられた事件については、何か秘密が隠されているに違いない。この両者の墓所は、旧幕時代には雨露をしのぐ塔舎(とうしゃ)すらなかったという。

 第五着。(松永です。五着目は、前述した、『駿府政事録』に記述されている家康の述懐が史伝と相違していることです。)

 第六着。「一富士、二鷹(たか)、三茄子(なずび)」という言葉があるが、これは家康の好物を指すという。茄子(なす)を好むということは、幼児に貧賤であって、これを多食したためではないか。なお家康は、老後も麦飯を用いていたという。

 第七着。家康は晩年、駿府(静岡)八幡小路(はちまんこうじ)にある老翁(ろうおう)を訪ねている。老翁は齢九十歳余。家康の従士は、老翁に対して顔を上げないように命じたという。この老人は、幼児の家康となんらかの関わりがあったのだろう。また、(家康が大名に成ってからの)家康の母、伝通院(でんづういん)( 通称、御簾前 おんすだれまえ。 於大=おだい= ) は、常に帷簾(すだれ)の奥に座し、侍婢(じひ)といえども、その容貌に接しえなかったという。

 第八着。家康は駿府の山川風物に非常に愛着を持っていた。これは、人質として滞在していた者の感情というより、幼児から山に遊び川に釣りした者の感情ではあるまいか。

<引用終了>

 松永です。以上、八つの項目が、村岡氏の着眼点(研究の出発点)だ。

 小和田氏は、つづけて「村岡素一郎は、強引に、この世良田元信が松平元康を殺し、元康にすり替わり、それがのちの家康になったとしているのである。」と何の根拠も示さずに書いているだけだ。村岡氏の『史疑』は、森山くずれや、人質の身分では到底ありえないような、各地の事績に関する古文書を根拠とし、それを村岡氏なりにきちんと解釈して、世良田元信が松平元康に入れ替わったと主張している。 

 決して強引ではないし、そもそも、村岡氏は、「世良田元信が松平元康を殺した」とは書いていない。「森山くずれは、実際には元康に起こった事件であり、弥七郎に刺し殺されたのは清康ではなく元康である。」と明確に主張している。

 そして、これで最後ですが、小和田氏が書くとおり、「家康=元康=元信 の祖父の清康が大檀那(だいだんな)となって大樹寺に多宝塔(たほうとう)を建立したとき、その心柱に「世良田次郎三郎清康」と書かれている」のは事実だし、「家康が元康と名乗る前、元信と名乗っていたことは、「大泉寺文書」や「高隆寺文書」などによっても明らか」だ。しかし、なぜ、いきなり「名前の点からも「家康替え玉説」の成り立つ余地はないといえよう」という結論に達するのか、理解に苦しむ。

 確かに、村岡氏は「世良田二郎三郎元信」という名前が、どこから見つけたのか、その根拠を示していない。この点については、私も村岡氏に一言文句を言いたい。

 村岡氏は『史疑』を書き上げるために、各地へ取材旅行をしている。上州(群馬県)の新田郡世良田郷で、なんらかの情報を得たのかもしれない。

 『史疑』の原文を読む限り、松平元康と松平権兵衛重弘(まつだいらごんべえ・しげひろ)との間に起きた、山中城(やまなかじょう)の攻防

(副島隆彦注記。世良田元信が、岡崎城に潜り込むための方策として、1560年中に、織田方に寝返った三河の武将たちの小城をわざと、攻め落として回った。その一つの戦い。)

 を研究中に『大久保松平記』にある「三州加茂郡(さんしゅうかもぐん)の山中城に対し、酒井、石川、大久保ら息もつかず攻め立てければ、城兵若干 討死(うちじ)にし防戦(ぼうせん)かないがたく思いにしや、夜中に篝火(かがりび)を多くたき城兵共(ども)は、間道より次々に落ち失せ(たのでこれを)占領したり。山中城が 徳川発祥の地 といわれるは、これがためなり」という記述が『史疑』にある。

 それともうひとつ、「山中城主 世良田二郎三郎元信」という伝承にふれて、この二つを根拠とし、世良田二郎三郎元信=徳川家康 と確信したと思われる。

 村岡氏は、おそらく、松平元康は生涯通じて世良田姓を名乗っていないし、もともと、山中城は松平家のものだから、一時、今川氏が所領としていた時期があったにせよ、わざわざ、山中城主・世良田二郎三郎元信と主張するのはおかしい、これは別人である、と考えたのでしょう。また「発祥の地」とは、多くの史疑研究家が指摘するとおり、願人坊主あがりの世良田元信の記念すべき初の持城(もちじろ)という解釈だ。

 これも私の推測だが、願人坊主として諸国を歩いていた頃の浄慶(じょうけい。6歳で寺に出された世良田元信が、付けられた名前 )が、多宝塔の心柱に刻まれてある「世良田次郎三郎清康 」の名を見て、「自分こそが、新田源氏の末裔であり、世良田姓を名乗るべき人間だ」と思い、元服後、自らを「世良田二郎三郎元信」と称したのではないだろうか。

 いずれにしても、ほんものの元康が、「(松平)二郎三郎元信」と名乗っていたことと、多宝塔の心柱に刻まれている「世良田次郎三郎清康」の二つでもって、「名前の点からも「家康替え玉説」の成り立つ余地はないといえよう。」と結論づけるのは、論理の飛躍である。


『家康について、その他の異説』


  家康について書かれてある膨大な量の書物すべてに目を通しているわけではないですが、調べてゆくうちに、『史疑』以外にも色々な説があることが分かった。

 時代小説『影武者(かげむしゃ)徳川家康』隆 慶一郎(りゅう けいいちろう)著 (新潮社) は、家康は関ヶ原の合戦で死に、その後影武者であった世良田元信と入れ替わったというストーリーだが、ところどころで『徳川実紀(とくがわじっき)』をもとにした隆(りゅう)氏の独自の物語づくりがなされており、徳川家を美化するために計画的に編まれた『徳川実紀』も読み方によってはこのように解釈できるものかと、感心させられた。

 ほかにも家康は、大阪冬の陣もしくは、夏の陣で死に(副島隆彦注記。大坂城内からの決死の覚悟で、家康の本陣を突いてきた、真田の軍勢(それが、後世「真田十勇士」の話になる)に家康は殺された、という説がある。) その後、入れ替わったなどという説もあるようだが、ここでは、それら数ある異説の中で、特に私が興味を覚えたものを紹介する。

 まずは『戦国史の怪しい人たち』鈴木眞哉(すずきまさや)氏著(平凡社)の25~26ページから引用する。

<引用開始>

 家康の死んだ直後に、秋田の佐竹義宣(さたけよしのぶ)が、国元に送った書状(「秋田・佐竹史料館所蔵文書」)にある家康の遺言などがそれである。義宣はもともと常陸(ひたち・茨城県)の大名だったが、関ヶ原の戦いのとき、西軍寄りの態度を取ったというので秋田へ移封された人で、家康臨終の前後には江戸にいたようである。

 家康の遺言については、側近の金地院崇伝(こんちいん・すうでん)が書きとめたものが一般に知られている。それは、遺骸は駿河久能山に納める、葬儀は江戸の増上寺で行う、位牌を三河の大樹寺に立てる、一周忌の後に下野日光山に小堂を建てるといった項目から成っている。(中略)

 それをどういう手づるによるものか、義宣はキャッチしていた。内容は崇伝の記しているところとほぼ同じであるから、出所はたしかであることがわかるが、一ヶ所だけ大きな違いがある。大樹寺に位牌を立てるのではなく、遠江(とうとうみ。浜松。浜名湖のあたり一帯。静岡県西部)に先祖ニ代の塚があるので、そこに自分の塚も築くようにと指示したというのである。
 
 そこに言う「御せんそ(先祖) 御りょうだい(両代)」が誰を指すのかは明らかではないが、少なくとも、三河松平家歴代の中には遠江に墓所のあるような者は見当たらない。

<引用終了>

 松永知彦です。遠江に先祖あり、というのは『史疑』にも若干つながります。諸国を流浪する祈祷僧(きとうそう)が実父だとすれば、直近の先代は遠江で没したということも言えなくはない。この遠江、浜松 で、又衛門につかまり、駿河の酒井常光坊の元へ売られた、とも言えるかもしれません。鈴木氏は『史疑』には否定的立場だが、家康にまつわる文献や伝承に疑問が多いことも指摘している。

 つづいて、榛葉英治氏の『史疑 徳川家康事績』の185~186ページから引用する。

<引用開始>

 最近、「日本出版販売」発行の「出版ニュース」という冊子で、作家の加賀淳子(かがじゅんこ)氏が、家康について書いた一文を読んだ。徳川家康の出生と、その後について、『史疑』の内容と、ほとんど同じことを書いている。左に、それから大要を引用させてもらう。

 ―家康の素性しらべをするには、「徳川実紀」や「徳川系譜」、「重修譜」などは、信用がおけない。それらは、徳川の御用学者(ごようがくしゃ)によって、でっちあげられた系譜書であるからだ。清和源氏とか、上野新田氏の後裔(こうえい)といっても、なっとくのいく証拠は見あたらない。

 「家康自身は、もともとその松平家の出身でもなかったかのように、わたしは推理している」と加賀淳子氏は書いている。

 ―かれは、世良田元信と称して、不頼の徒をあつめ、旗あげした。その頃、松平の当主元康は、陣中で家臣に殺された。世良田元信は、松平家にはいりこみ、元康の夫人をたらしこんだうえ、その元康のあとにすわりこんだ。元康の未亡人は、築山殿であり、その嫡男は、信康である。
 
 だいたい、子ぼんのうで有名な家康が、自分よりも大切な嫡男を殺すなど、常識では考えられないし、当然、次代の将軍であるべき信康が、武田家と内通して、父親を裏切るなど、すこしも合理性がない。

 もともと、家康は、伊勢方面のササラ者の名もない者の子であった。かれは、願人坊主
の酒井浄慶坊 (俗称常右衛門か) に、銭何貫文かで買われ、彼に弟子入りしている。
 
 徳川家と、酒井家の関係は、他の譜代とはちがって、特殊な関係にあった。これは当の酒井家でも自認していることだ。名もないササラ者の子を世良田元信へ前進させた酒井浄慶坊にたいする、かぎりない家康の報恩のしるしだと考えてはいけないだろうか・・・

 以上の大要は、加賀氏の文章から、ばっ萃したものである。氏が「史疑」を読んだかどうかは知らないし、この文章には「史疑」の名は出てこない。私とちがって歴史にくわしいこの女流作家が、自分の信じたところを書いた文章であると考えられる。

<引用終了>

 松永知彦です。「源氏とは関係なく、伊勢方面のササラ者」としているところが史疑と大きく違います。この加賀氏の見解は、ぜひ全文を読んでみたいと思っているのが、手に入らない。

 次に、家康の数多い異母兄弟のなかでも、特に謎めいた二人についての伝承です。元康の父である広忠とお久(松平乗正の娘とされている) の子で、松平忠政(ただまさ)と恵最(けいさい)だ。弟である恵最は、伝承では、家康と同年、同日、同時刻の生まれだったので、それを憚って僧となり、広忠を弔うために建てられた、広忠寺(こうちゅうじ)の住持となったという。

 兄忠政のほうは、従五位下・右京大夫に任ぜられ、慶長四年に没し、宗賢という法名まであった。しかしこの二人、『松平忠政 遺状』と『酒井雅楽頭 家来松平孫三郎久典 系譜』には経歴が記載されているものの、公式書である『徳川幕府家譜(かふ)』には載っていないばかりか、松平家の正式な系譜にも、どこにもでていない。

 そればかりか、江戸時代、寛政(かんせい)年間に編纂された、『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ) では、このふたりに関する伝承は編者によって否定されている。それを受けるかたちで、中村孝也博士 もその著書『家康の族葉』のなかで、「おそらくは誤伝であろう」としている。

 しかし、この二人の母である、お久 (広忠没後、妙琳尼(みょうりんに)と称した)の要望で、家康が建立を許したという広忠寺は、現在の岡崎市桑谷(くわや?)に現存している。そこには、忠政らの墓があり、門前の案内板には、岡崎市教育委員会による寺に関する紹介文が書かれてある。 案内板には恵最ではなく、「えい新」という名が書かれてありました。

 この恵最(えい新?)が、本来であれば、(ほんものの)元康の死後、松平宗家を継ぐはずの人だったのではないか。それが、世良田元信が、元康と入れ替わるかたちで岡崎城へすべり込んできたので、現在の岡崎市桑谷へ逃れたのだろう。

 正式な系譜に一切載っていないのもそのためで、僧になるよりほかなかったのではないか。生年が、家康と同年、同日、同時刻、というのは、地元の人々が、恵最のことを忘れないための、意図的につくった伝承だろう。直接確認したわけではないが、恵最は広忠寺の開祖である、にもかかわらず、寺の寺社記にも、なぜか詳しいことがまったく記載されていない。

 最後に『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】』の36~39ページに掲載されている、家康の幼少時の人質時代に関する平野明夫氏(國學院大学講師)の新説である。

 平野氏は、田島進左衛門尉 宛 松平親乗 (たじまさえもんのじょう あて まつだいらちかのり)の古文書(本光寺所蔵田島家文書)の記述を根拠として、のちの松平元康である竹千代は、天文十八年十一月から弘治元年三月まで、吉田 (現在の豊橋市) に今川の人質として滞在していた、と主張している。八歳から十四歳までで、満年齢では六歳から十二歳までとなるそうだ。

 平野氏はこの自説にかなりの自信を持っている。興味のある方は是非確認してください。この新説が証明されることになれば、その同時期において、駿府で源応尼と智短上人のもとで元気に活動していた、のちに徳川家康と名乗ることになる少年は、一体何者だったのか。

 そして、吉田に住んでいた元康自身と、『駿府政事録』、『駿府記』にあるように、その頃、駿府又は駿河国に住んでいたと言う、家康自身の述懐とも当然かみ合わなくなる。この平野氏の新説は 村岡『史疑』を支持する立場の者にとって強力な援護になる。

(了)

これで、松永論文を終わります。

今時 親を信用してるようでは、命が幾つあってもたらん。
親を見捨てて自主避難せんとな。

2chより

ミッチー

すべき勉強をしないままデビューしなくて良かった。

今、出来ることをやるしかない。

by ミッチー

己の

 全体は個の集合であり個は全体の一部であるならば、個である己の快と益、利、善を追求することが全体の為でもあるのではないか。

己の欲求を満たすことが全体のためにもなるはずである。

彼らのことなど知ったことではない。

中国人の言うところの「幣(パン)」だけのことを考えていれば良いのだ。

共産主義の崩壊と資本主義の爆発

共産主義の崩壊と資本主義の爆発ということは結局、つまるところユダヤ主義の終了ということである。

ソビエトがユダヤ国家であったことは良く知られている。スターリンなどは典型的なユダヤ人である。

ソビエト帝国の建設にロックフェラーが資金提供したことは有名である。

アメリカも、またユダヤ国家である。

共産主義、資本主義ともに終了するということは、ユダヤ主義が崩壊するということである。


座頭市

落ち葉は風を恨まない。 落ち葉は風をとらえる。